「心は身体よりもよく知られる」。これが、第二省察につけられたタイトルです。
正直、最初にこれを聞くと、少し腑に落ちません。目の前にあるコップや机は、見れば分かる。触れば分かる。それに比べて、自分の心の中身なんて、自分でもよく分からないことの方が多いはずです。なのに、デカルトは「心の方が確実に知られる」と言う。今日はこの、一見逆説的に思える主張が、どうやって導かれるのかを追ってみます。舞台になるのは、たった一つの蜜蝋です。
「考える私」だけでは、まだ物足りない
前回・前々回で見てきた通り、デカルトは「私は考えるものである」というところまでは、たどり着きました。疑っている、理解している、想像している、感じている――こうした働きがある限り、私は存在する。
ところが、デカルトはここで、正直な告白をします。「考える私」がこれほど確実だと分かった後でも、なぜか身体的なもの――目の前にある物体――の方が、よりはっきりと分かる気がしてしまう、と。理屈では「考える私」の方が確実なはずなのに、実感としては、机やコップの方がずっと生々しく、確かなものに思える。この違和感を放っておかず、デカルトはそれを解消するための実験を始めます。
一つの蜜蝋を手に取る
一般論ではなく、個別の一つのものを考えよう、とデカルトは言います。そこで登場するのが、蜂の巣から取り出したばかりの、一つの蜜蝋です。
この蜜蝋には、蜂蜜の甘さがまだ残っています。集めた花の香りも、わずかに漂っています。色も形も大きさも、はっきり見て取れます。硬くて、冷たくて、簡単に触れられて、指で叩けば、ちゃんと音がします。「物体を判明に認識するために必要なものが、これほど揃っている例はない」というくらい、あらゆる感覚的な特徴を備えています。
ところが、この蜜蝋を火に近づけると、何が起きるでしょうか。
甘さは消えます。香りは飛びます。色は変わります。形はなくなります。大きさは増して、液体になり、熱くなり、もう触れることもできず、叩いても音は出ません。感覚で捉えられる性質が、一つ残らず、まるごと入れ替わってしまうのです。
それでも「同じ蜜蝋」だと、誰もが認める
ここでデカルトは、決定的な問いを投げかけます。それでもなお、これは「同じ蜜蝋」だと言えるだろうか、と。
答えは、誰にとっても「イエス」です。溶ける前と後とで、「これは別の蜜蝋だ」と考える人はいません。誰もが、当たり前のように「同じ蜜蝋が、状態を変えただけだ」と判断します。
しかし、よく考えてみると、これは奇妙なことです。感覚で捉えられていた性質――甘さ、香り、色、形、硬さ、音――は、溶ける前と後とで、何一つ共通していません。感覚に頼る限り、「同じもの」だと判断する根拠は、どこにも見当たらないはずなのです。
では、私たちが「同じ蜜蝋だ」と判断するとき、いったい何を根拠にしているのでしょうか。
想像力でもない、感覚でもない
デカルトはまず、「想像力が捉えているのではないか」という可能性を検討します。蜜蝋に残るのは「広がりをもち、柔軟で、姿を変えられるもの」という性質だ、と言えそうです。しかし、これも想像力の働きではない、とデカルトは言います。なぜなら、蜜蝋が取りうる形の変化は無数にあり、その無数の変化を、想像力で一つひとつ思い描いて確認することなど、誰にもできないからです。
つまり、蜜蝋の本性を捉えているのは、感覚でも、想像力でもない。それは、心による、純粋に知性的な洞察だ、というのがデカルトの結論です。目で見たり手で触れたりして「分かった」つもりになっていることの正体は、実は感覚がもたらしたものではなく、心が下している判断だった、ということになります。
窓の外を歩く人々は、本当に「見えて」いるか
この結論を、デカルトはもう一つ、印象的な例で補強します。窓から外を見て、広場を歩いている人々の姿が見えるとき、私たちは「あの人たちを見ている」と、ごく自然に言います。
しかし、とデカルトは問いかけます。もしかしたら、帽子と外套の下に隠れているのは、人間ではなく、自動人形かもしれません。それでも私は、迷わず「あれは人間だ」と判断します。つまり、「目で見ている」と思っていたことの実際は、目に映った色や形の情報だけでなく、心の中にある判断の力によって、初めて「人間だ」と理解されているのです。
蜜蝋を「同じ蜜蝋だ」と判断することも、これとまったく同じ構造です。感覚は移り変わる性質を伝えてくるだけで、「同一性」そのものを教えてはくれません。「これは同じものだ」と結論しているのは、いつも心の判断の方なのです。
だから、心の方がより確実に知られる
ここまで来ると、最初の「心の方が確実に知られる」という主張の意味が、はっきりしてきます。
蜜蝋という、私の外にある物体の本性を捉えているのが、感覚ではなく心の知性的な洞察であるとすれば――外の物体についてさえ、それを理解しているのは心だとすれば――その心自身については、なおいっそう直接的に、確実に知られているはずだ、とデカルトは論じます。「蜜蝋が存在する」と私が判断できるのは、そう判断している私自身が存在しているからです。物の存在を確信するより前に、判断している私の存在の方が、すでに確かなものとしてそこにある。
だからこそ、目の前の机やコップが「よりはっきり分かる」という、あの最初の実感は、実は錯覚だったということになります。それらを「分かった」と思わせているのは、感覚が運んでくる情報そのものではなく、その背後で静かに働いている心の判断です。そして判断する働きそのものは、判断される対象よりも、常に一歩手前にある。
この、感覚ではなく知性が物の本性を捉えるという考え方は、後の哲学に大きな影響を残しました。ロックやカントをはじめとする、その後の認識論の議論も、この蜜蝋の分析が開いた問いの延長線上にあります。「見る」とはどういうことか、「分かる」とはどういうことか――デカルトが一つの蜜蝋を手に取って考え始めたこの問いは、今なお認識論の出発点であり続けています。