「デカルトは心と身体を別のものだと考えた」。これも、「我思う、ゆえに我あり」と並んで、デカルトという名前とともによく知られている話です。心身二元論。哲学の教科書には必ず出てきます。

けれども、この言葉だけを聞くと、少し奇妙な誤解が生まれがちです。「デカルトは、心が身体を、運転席に座った運転手のように操作していると考えたのだろう」という誤解です。実はデカルト自身が、まさにこの誤解を先回りして否定しています。今日は、その否定の場面――第六省察に出てくる、ある印象的な比喩を中心に読んでいきます。

心と身体は「実在的に区別される」

まず、二元論そのものがどう論証されているかを確認します。第六省察でデカルトが使う論法は、次のようなものです。

私は、自分を「考えるもの」として、はっきりと理解できる。そこに「広がり(大きさや形)」は含まれていない。一方、身体は「広がりをもつもの」として理解できるが、そこに「考える」ことは含まれていない。この二つを、互いに他方を混ぜ込むことなく、それぞれ単独ではっきりと理解できるなら――そして神がその通りに世界を実現できるなら――心と身体は、実際に切り離して存在させることができる、別々の実体である。

これが「心身二元論」、哲学史上「実体的二元論」と呼ばれる立場の骨格です。心は「考えるもの」(res cogitans)、身体は「広がりをもつもの」(res extensa)。この二つのラテン語は、デカルト哲学の中でも特に有名な術語です。

しかし、デカルトはすぐに付け加える

ここまでなら、よくある「心と身体はまったくの別物」という理解のままです。ところがデカルトは、この結論を出したすぐ後で、次のようなことを言い始めます。

苦痛や飢え、渇きといった感覚を通じて、自然は私に、こういうことを教えている――私は身体に対して、船乗りが船に乗り込んでいるようなあり方をしているのではない。そうではなく、身体と非常に密接に結びつき、混じり合っているほどであって、身体と一つのものを構成している。

これが「船乗りと船」の比喩です。とても短い一節ですが、二元論の印象を大きく塗り替える一節でもあります。

もし心が、船乗りが船を操縦するように身体を動かしているだけなら、身体のどこかが壊れても、船乗りはそれを「情報として」知覚するだけのはずです。計器のランプが赤く点灯するのを見るように、「ああ、船体のここが損傷しているらしい」と、冷静に、他人事のように把握するだけでよいはずです。

しかし実際には、そうではありません。身体が傷つけば、私たちは「痛み」を感じます。船乗りは船の損傷を「痛がったり」しません。しかし人間は、指を切れば痛がります。この痛みという感覚こそが、心と身体が単なる操縦関係ではなく、実質的に一体化していることの証拠だ、とデカルトは言うのです。

二元論なのに、一体化している――この矛盾のような構造

整理すると、デカルトは同じ第六省察の中で、一見矛盾するような二つのことを言っています。

心と身体は、本性においてまったく異なる、別々の実体である(実体的二元論)。しかし心と身体は、船乗りと船のような外部操作の関係ではなく、密接に結合し、混じり合った一つのものを構成している。

これは矛盾ではなく、デカルトが「理論上、本性としては区別される」ことと、「実際の人間としての経験においては、分かちがたく結びついている」ことを、両方とも譲らずに主張しようとした結果です。哲学的な厳密さと、生きられた実感の両方に、誠実であろうとした跡だと言えます。

それでも残った、深刻な宿題――心身問題

ただし、この立場は、デカルト自身も逃れられなかった大きな難問を生みました。心と身体がまったく異なる実体だとすれば、この二つはどうやって影響を及ぼし合っているのか、という問題です。意志(心のはたらき)は、いったいどうやって腕(身体)を動かしているのか。

デカルト自身は、脳の中心付近にある「松果腺」という器官を、心と身体が接触する場所として提案しました。しかし、この説明は後の哲学者たちから、説得力に欠けると厳しく批判されることになります。

この宿題――「心身問題」――は、その後の哲学史を大きく動かしていきます。スピノザはデカルトの二元論そのものを退け、精神と物体は、ただ一つの実体がもつ二つの現れ方にすぎないという一元論を打ち立てました。ライプニッツは、心と身体がそれぞれ独立に、しかし神によってあらかじめ調和するように仕組まれているという「予定調和」という独自の体系で応じました。

現代にまで続く、同じ問い

そして驚くべきことに、この問いは17世紀で終わっていません。

現代の心の哲学では、哲学者デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化した「意識のハード・プロブレム」という議論があります。脳の神経活動がどのように働いているかを説明すること(イージー・プロブレム)と、その神経活動がなぜ、どのようにして「主観的な感じ」――たとえば赤色を見たときの、あの独特の「赤らしさ」の感覚――を伴うのかを説明すること(ハード・プロブレム)は、まったく別の難しさを持つ、という指摘です。

これは、デカルトが突き当てた「考えるもの」と「広がりをもつもの」の間の溝と、本質的には同じ問題です。脳という物理的な、広がりをもつ器官の活動から、なぜ「痛い」という、広がりを持たない主観的な感じが生まれるのか。デカルトは心と身体を二つの実体として切り分けることで、この溝の存在をはっきりと示しました。そして、その溝を埋める方法は、400年近く経った今も、まだ見つかっていません。

人工知能が発達し、「AIに意識はあるのか」という問いが現実味を帯びている今、この問いはむしろ以前より切実になっているとさえ言えるかもしれません。哲学・神経科学・人工知能研究が交差する最前線で、17世紀にデカルトが開けた問いが、今もそのまま生き続けています。