本編と「別の伝承」、あわせて十一の記事で、『エヌマ・エリシュ』の内容をたどってきました。最後に一本、番外編として、この物語がどのようにして現代に知られるようになったのか――発見の経緯をたどってみます。

新聞への投書から始まった

この詩について最初に世に報告したのは、ジョージ・スミスという人物でした。彼はこの伝説を、1875年3月4日付の『デイリー・テレグラフ』紙への手紙のなかで発表し、断片の内容の要約を示しました。同じ年の11月2日には、聖書考古学協会でこれについての論文を読み上げています。バビロニアの創造神話の存在が、学術論文ではなく、一通の新聞投書によって世に知らされた、ということになります。

驚くほど正確な要約、いくつかの取り違え

スミスは、バビロニアの伝説とヘブライの伝説――『創世記』――の類似にいち早く気づき、それを強調しました。ただし、実際以上に近い類似を見てしまった面もあります。たとえば彼は、のちに第七書板と確認される書板に「人間の堕落」への言及があると考え、ある書板は人間創造後に神が与えた教えを含むと解し、別の書板をバベルの塔の物語の異本と考えました。これらの同定は、のちにすべて誤りだったとわかります。それでも、彼が示した伝説全体の内容の概要は、驚くほど正確だったと底本は評しています。なお、より大きな創造の断片の全般的な性格は、スミスに先立って、H・C・ローリンソン卿がすでに正しく見抜いていた、と述べる学者もいるそうです。

死の前年に残した六枚の図版

1875年11月までに、スミスは六枚の図版を用意していました。第一書板と第五書板の一部、彼が「神々と混沌との戦い」と名づけた第四書板、そして彼が「堕落を述べる書板」と呼んだ第七書板の写しです(この「堕落」という見立ては、先に見たとおり誤りでした)。これらは、彼の死後、1876年になって『聖書考古学協会紀要』第四巻に公刊されました。同じ年、彼の著書『The Chaldean Account of Genesis』も刊行され、それまでに確認された断片の翻訳が示されます。

四半世紀後、キングが引き継ぐ

スミスの死後も、オッペルト、シュレーダー、セイスといった学者たちが訳と研究を発表し続けました。ウォリス・バッジが第四書板の見事な写本を報告し、イェンゼン、ツィンメルン、デーリッチュらも翻訳と研究を公にしています。そして1900年、大英博物館の『Cuneiform Texts』シリーズのために本文を書き写す任務を託されたのが、この本の著者キングでした。作業のなかで彼は新しい断片や別写本を見いだし、それまで二十一枚だった書板・断片は、四十九枚にまで増えます。この結果、連作が七枚の書板から成ることと、第六書板が人間の創造を語っていたことが、初めて確認されました。本書は、この新資料にもとづく翻訳です。ちなみに、スミス自身が1876年に参照しながら、その後だれにも同定されていなかった書板を、キングは作業中に自分の目で見分けています。半世紀近くにわたる、多くの学者たちの手による発見の積み重ねの果てに、この本があるのです。