子どもに「いちばん大きい数は?」と聞かれたことはないだろうか。「一億」と答えれば「じゃあ一億と一は?」と返され、どんな数を挙げても、すぐにその先が出てくる。だから数には終わりがない。私たちはふつう、こうした「どこまで行っても、まだその先がある」ことを、無限と呼んでいる。
ヘーゲルは『大論理学』の有論で、まさにこの無限を問い直す。終わりのない「その先」は、本当に無限なのか。彼の答えは、否である。それは「悪無限」、すなわち悪い無限にすぎない。では、真の無限とは何か。有論の第二章「定有」の最後に置かれた「C. 無限性」の議論を、順にたどってみよう。
有限なものは、自分を越えてゆく
話は、有限なものから始まる。有限なものは、ただ限界をもっているだけではない。それは、こうあるべきだという「当為」と、それを阻む「制限」とを、自分のなかに抱えている。当為は制限を越え出ようとし、制限は当為を指し示す。有限なものは、こうして自分自身のなかの矛盾であり、自分を止揚し、消滅する。
ところが、消滅した有限なものは、さしあたりただ別の有限なものになるだけで、それもまた消滅して別の有限なものへ移る。翻訳本文の言葉でいえば、「いわば無限に」続いてゆく。ここにすでに、終わりのない「その先」の姿が見えている。
しかしヘーゲルは、この消滅をもう一歩踏み込んで見る。有限なものは、自分の否定のなかで、かえって自分自身と合流している。この否定の否定、肯定的な有が、無限なものである。大事なのは、有限なものを無限なものへ連れ出すのが、外から来る別の力でも、それを眺める「われわれ」の理性でもない、という点である。ヘーゲルはこう言う。「自分を越え出て、その否定を否定し、無限になることは、有限なものそれ自身の本性である。」無限性は、有限なものの外にあるのではなく、有限なものの「肯定的な規定」なのである。
「こうして無限に続く」――悪無限
ところが、無限なものが有限なものではないもの、つまり「非有限なもの」として立てられたとたん、話がこじれる。無限なものは、有限なものの否定として、有限なものに向かい合って立つ。すると無限なものは、有限なものという他のものを向こう側にもち、それによって限界づけられた、一つの或るものに落ち戻ってしまう。こちら側に有限な世界(此岸)があり、あちら側に、たどり着けない遠方として無限な世界(彼岸)がある。二つの世界が並ぶとき、無限なものは有限なものの限界にすぎず、それ自身「有限な無限なもの」になる。
この二つの関係は、無限への進行として現れる。有限なものの限界を越えて、無限なものへ出てゆく。しかしその空虚な彼岸のなかに、また新しい限界が見いだされる。それを越えると、また空虚があり、また限界がある。――「こうして無限に続く」。冒頭の「一億と一は?」の問答は、ちょうどこの進行の小さな見本と言えるだろう。
ヘーゲルはこれを、有限なものと無限なものを他のものどうしとして固定する、悟性の無限なものと呼び、手厳しく評している。「無限への進行は、したがって、繰り返される同一性、この有限なものと無限なものとの、同じ退屈な交替にすぎない。」悪無限は、有限なものの否定でありながら、そこから真に自由になることができない。それは、決して果たされない「永続的な当為」と同じなのである。
この進行は、数に限らない。注解でヘーゲルが挙げているのは、原因と結果の例である。原因は結果なしには原因でなく、結果は原因なしには結果でない。ところが、ある原因にはさらにその原因があり、その原因にもまた原因がある。こうして、両者を結びつけては切り離す同じ交替が、無限に繰り返される。
線から円へ――真の無限
では、真の無限はどこにあるのか。ヘーゲルは、新しい何かを付け加えるのではなく、無限進行のなかにすでにあるものを取り上げさえすればよい、と言う。
まず、有限なものから切り離された無限なものは、「二つのうちの一つ」にすぎず、それゆえそれ自身有限である。次に、無限進行をよく見ると、有限なものから出発して限界を越え、無限なものへ出て、それをまた越えると、再び有限なものに戻ってくる。有限なものは、その彼岸のなかにただ自分を見いだしたのである。無限なものから出発しても、同じことが起こる。どちらを始まりに取るかは、まったくどうでもよい。有限なものも無限なものも、否定を通じて自分に戻る一つの運動の契機であり、この過程の全体こそが、真に無限なものである。
ヘーゲルはこの違いを、線と円の像で示す。無限進行の像は、両端へどこまでも延びてゆくまっすぐな線であり、無限なものは、線のない所、その先にしかない。これに対して、「真の無限性としては、自分のなかへ曲げ戻され、その像は円となる。自分に到達した線、閉じていて全体として現前し、始点も終点もない線である。」
ここで、たどり着けないことの意味が反転する。悪無限が到達しえないのは、その高貴さではなく、その欠陥である、とヘーゲルは言う。真の無限は、どこか遠い彼岸にあるのではない。それは「ある」し、そこにあり、現在している。また、真の無限は「有限なものと無限なものの統一」という公式でも捉えきれない。統一という言い方は動きのない同一性を思わせるが、真の無限は、その二つの契機と同じく、本質的にはむしろ「成」としてのみあり、それも第一章で見た成がさらに規定されたものだからである。
無限なものは、どうして有限になるのか
この議論は、哲学の古い難問にも答えを与える。無限なものは、どのようにして自分から出て、有限なものに至るのか。それは理解可能にはできない、と考えられ、これに答えられるかどうかに哲学の存否がかかる、とまで言われてきた。
ヘーゲルの答えは明快である。「まず無限であり、そのあとで初めて有限になり、有限性へ出てゆく必要がある無限なものは存在しない。」この問いは、無限なものと有限なものを、それぞれ自立したものとして切り離したうえで、両者のつながりを求めている。しかし、そのように切り離された無限なものは、すでに見たように悪無限であり、真理をもたない。だから必要なのは、問いに答えることではなく、問いに含まれた誤った前提そのものを否定することなのである。
真の無限において、有限なものは消し去られるのではなく、自立しない「契機」として、そのなかにとどまる。ヘーゲルはこれを「観念性」と呼び、有限なものを真に存在するものとして認めないことこそが観念論であり、あらゆる哲学は本質的に観念論である、少なくともそれを原理としている、と述べる。問題は、それがどこまで貫徹されているかにある、とも彼は言う。タレスの水でさえ、ただの経験的な水ではなく、他のすべての物の本質を言い表す思想だったのである。そして、自分に帰ってきたこの無限は、次の第三章で「対自有」として展開されてゆく。
悪無限について、ヘーゲルはそれを、解消されず、ただ「ある」と言い表されるだけの「矛盾」と呼んでいた。この矛盾という言葉は、『大論理学』の第二の書、本質論で、正面から主題となる。次の記事では、「あらゆる物は、それ自体において矛盾している」という、ヘーゲルのもっとも挑発的な命題を見ていく。