ビリヤードの球が別の球に当たると、当たられた球が動く。このとき私たちは、前の出来事が後の出来事を「必ず」引き起こすと考えている。だが、この「必ず」とは何なのか。目の前の出来事のどこに、それは見えているのだろうか。『人間本性論』第1巻第3部第14節で、ヒュームはこの問いを正面から取り上げる。本稿では、必然性がどこにあるのかという一点に絞って、その議論の道筋をたどる。
対象を調べても見つからない
ヒュームの出発点は、すべての観念は何らかの印象に由来するという原理である。この観念を本当にもつと言うなら、その源になる印象が何かあるはずで、それを探し当てねばならない。そこで彼は、必然性が通常どこにあると想定されているかを考える。それは、つねに原因と結果に帰されている。そこで、その関係に置かれた二つの対象に目を向け、あらゆる状況で調べる。
見えてくるのは、二つの対象が時間的にも場所的にも隣り合っていること、原因と呼ぶ対象が結果と呼ぶ対象に先立つことである。それ以上の関係、とくに両者を結びつける絆は、どの事例でも見出せない。一方または両方を眺めるだけでは、結合があると確実に言うことさえできない。したがって、一つの事例だけからは、必然的結合も力能もエネルギーも、その観念は得られない。
繰り返しは対象に何も加えない
では、似た事例を多く観察したらどうか。同じ種類の対象がいつも組になって現れるのを見ると、われわれはすぐに両者の結びつきを思い浮かべ、片方からもう片方へ推理を進めはじめる。ヒュームは、この類似した事例の多数性にこそ、力能の観念の源泉があると考える。
ただし、そこには難問がある。完全に類似した事例を重ねても、個々の事例のなかにないような根源的な観念は生じないはずだからである。そこで、反復がそれ単独で作用するのではなく、その観念の源泉となる何か新しいものを、発見するか生み出すかしなければならない。ところが、対象のなかには、そのどちらも認められないとヒュームは論じる。継起と近接の反復そのものからは、新しいものは何も発見されない。それが論証的推論にも蓋然的推論にも当たらないことは、すでに示されている。また、事例どうしは互いに独立している。いま見る二つのビリヤードの球の衝突と、一年前に見た衝突とは、時間と場所によって隔てられ、一方は他方がなくても起こりえた。こうして、恒常的連接によっても、対象には何も新しいものが加わらない。それなのに、必然性の観念はこの類似から生じる。ゆえに、この観念は対象に属するものを表してはいない。
心が移るよう決定される印象
対象のなかに新しいものがないなら、残るのは心である。十分な数の事例で類似を観察すると、一つの対象が現れたとき、心はその通常の随伴物へと移り、それをより強い光のもとで思い描くよう決定される。ヒュームはこの決定を、新しい印象だとする。それは感官が伝えるものではなく、心の内側に生じる反省の印象である。必然性の観念の原型は、これ以外にない。
ここから導かれる結論を、彼は次のように言い切る。「必然性は心のなかに存在するものであって、対象のなかにあるものではない」。二掛ける二が四に等しいという必然性や、三角形の内角が合わせて二直角になるという必然性が、観念を比べる知性の作用にしかないのと同じく、原因と結果を結ぶ必然性も、心が一方から他方へ移るときの決定のなかにある。ヒュームは、この見解が突飛で滑稽に聞こえるだろうと自覚している。原因は、それを眺める心がなくても働くではないか、という反論である。これに対して彼は、対象が近接と継起の関係にあること、似た対象が似た関係に置かれることは、知性のはたらきとは無関係で、しかもそれより前にあると認める。しかし力能や必然的結合は、対象のなかに観察できない。それを対象に帰するなら、その観念は、対象を眺めるときに内的に感じるものから引き出すほかない、と答える。
原因の二つの定義
こうして、ヒュームは原因の定義を二通り与える。対象の外側から見れば、原因とは「ある対象が他の対象に先行し、近接しており、前者に類似するすべての対象が、後者に類似する対象に対して、同様の先行と近接の関係に置かれているもの」である。心の側から見れば、原因とは「ある対象が他の対象に先行し、近接しており、それと結びついているために、一方の観念が心を決定して他方の観念を形づくらせ、一方の印象が心を決定して他方のいっそう生き生きとした観念を形づくらせるもの」である。この二つは、同じ対象を、哲学的関係(二つの観念の比較)として見るか、自然的関係(それらの間の連合)として見るかの違いにすぎない。
必然性の居場所が分かったところで、物体の存在を信じる原因についての問いが残る。次の記事では、見ていない物が存在し続けると私たちが信じるのはなぜか、というヒュームの問いに軽く触れる。