炎を見れば、私たちは熱を予期する。しかし炎を見ているとき、熱はまだ感じられていない。目の前にないものを、私たちはなぜ、あるはずだと言えるのだろうか。
ヒュームは『人間本性論』第1巻第3部で、この問いを原因と結果の観念から調べていく。第2節と第6節に沿って、その道筋をたどる。
原因の観念には何が含まれるか
同一性、時間と場所における位置関係、因果性という三つの関係のうち、感官を超えて、見ることも感じることもない存在を知らせてくれるのは因果性だけである。そこでヒュームは、因果性の観念の起源を調べる。
原因と結果と呼ばれる二つの対象をあらゆる側面から見回しても、その観念の源になる印象は、対象の個々の性質のうちには見つからない。どの性質を選んでも、それを備えていないのに原因や結果と呼ばれる対象があるからである。観念は、対象のあいだの何らかの関係から導かれたものでなければならない。
ヒュームが最初に見いだす関係は近接である。何ものも、自らの存在する時間や場所からわずかでも離れたところでは働けない。離れた対象が産出し合うように見えても、たいていは、近接した原因の連鎖で結ばれていることが分かる。見つからない事例でも、人はそれがあると推定する。だからヒュームは、近接を因果性に本質的だとみなしてよい、と一般の意見に従う形で、留保をつけて述べる。第二の関係は先行、つまり原因が結果より時間のうえで先立つことである。こちらは近接ほど広くは認められず、論争がある。原因と同時的な結果を認める人々もいるからである。ヒュームは推理で先行を立てる。原因が結果と同時でありうるなら、すべての原因がそうでなければならず、継起がなくなってしまう。納得できなければ先行を想定させてほしい、問題は大して重要でない、とも彼は言う。
近接と先行だけでは足りない
ところが、ヒュームはここで行く手を阻まれる。物体の衝突を注意深く眺めても、見いだされるのは、一方が他方に接近すること、一方の運動が他方の運動に先立つこと、間に感じ取れる間隔がないことだけである。
これでは原因の完全な観念にならない。「ある対象は、別の対象の原因とみなされることなく、それに近接し、先行することがありうる」からである。考慮に入れるべきものがもう一つ、必然的結合である。しかしこれは、対象の既知の性質のうちにも、近接と継起以外の関係のうちにも見つからない。そこでヒュームは、直接の考察をいったん離れ、手がかりになりそうな二つの問題を検討する。推理の本性を扱うのが、第3〜5節をはさんだ第6節である。
一つの対象を調べても、別の対象は出てこない
第6節の出発点は、原因から結果への推理が、対象を見渡すことや、その本質への洞察から導かれるのではない、という観察である。対象をそれ自体で考察し、それらについて形づくる観念の外には決して目を向けないなら、別の対象の存在を含意する対象は一つもない。含意するなら、その推理は知識になり、異なる何かを思い描くことが矛盾になるはずである。しかし「すべての別個の観念は分離可能である」。現在の印象から観念へ移るとき、その観念を切り離し、別の観念で置き換えることもできたはずなのである。
経験と恒常的連接
では何によって推理できるのか。経験によってのみである、とヒュームは答える。私たちは、炎を見たことも熱を感じたことも記憶しており、過去のすべての事例で両者が近接と継起の規則的な順序で存在してきたことを思い起こす。これが恒常的連接である。そこで一方を原因、他方を結果と呼び、一方があれば他方もあると推理する。そのとき知覚や記憶にあるのは一方だけで、他方は経験に従って補われる。
ただしヒューム自身、この発見は道のりをほとんど進めていないように思われると認める。恒常的連接は、似た対象がつねに似た関係に置かれてきた、ということ以上を含まないからである。そこで彼は、この推理そのものの本性を調べる。
推理は理性によるのではない
問いは、この移行をするよう私たちを決めているのが、理性か、知覚の何らかの連合と関係か、である。理性が決めるのなら、理性は、経験したことのない事例は経験した事例に類似しており、自然の経過はつねに一様に同じままだ、という原理に基づいて進むはずである。この原理を支える論拠は、知識か蓋然性のいずれかから導かれるしかない。
知識ではない。自然の経過の変化は思い描けるから、不可能だとは言えない。蓋然性でもない。蓋然性は、経験した対象に経験しない対象が似ているはずだという推定に基づいている。その推定が、蓋然性から生じることはありえない。「同じ原理が、別の原理の原因であり結果でもあることはできない」。反論する人は、過去の産出は力能を含意し、力能は新たな産出を含意する、と言うかもしれない。ヒュームはこれをしばらく認めたうえで言う。力能は原因の感覚できる性質のうちになく、現前しているのはその性質だけである。それなのに、ほかの事例でも同じ力能がある、と推定してよい理由は何か。過去の経験で答えても、同種の問いがまた生じ、限りなく続く。
こうしてヒュームは、恒常的連接を経験した後でも、その経験を観察した事例の外へ拡張すべき理由を、理性によって納得できない、と結論する。心が移るのは、理性に決定されてのことではない。対象の観念を想像力のなかで結びつける何らかの原理が、その移行を決めているのである。
では、現在の印象から別の観念へ移ったとき、その観念は心のなかでどのように思い描かれるのか。次の記事では、信念と呼ばれるこの問題に入る。