私は昨日の私と同じ人間だ。子どものころの私と今の私も、同じ私だ。誰もがそう信じて疑わない。では、その「私」とは何か。目を閉じて自分の内側をのぞけば、そこに「私」そのものが見えるのだろうか。ヒュームは『人間本性論』第1巻第4部第6節で、この素朴な問いに正面から向き合う。

自己の観念はどの印象から来るのか

議論の相手として、まず一部の哲学者が挙げられる。彼らによれば、われわれは自己を一瞬ごとに親密に意識しており、その単純性と同一性は証明を要さないほど確かである。強い感覚や激しい情念も、この見方から注意をそらすどころか、かえってそれを固定するという。

ヒュームは、これが経験そのものに反すると答える。実在的な観念はすべて、何か一つの印象から生じなければならない。ところが自己は、種々の印象や観念が関係していると想定されるものであって、一つの印象ではない。もし自己の観念を生む印象があるなら、それは生涯のあいだずっと同じでなければならない。しかし苦痛と快、悲しみと喜びは次々と継起し、すべてが同時に存在することはない。恒常的で不変の印象はないのだから、自己の観念が導かれる印象もなく、したがってそのような観念はない、と彼は結論する。

私が出会うのは、いつも個別の知覚である

続いてヒュームは、自分自身の場合を述べる。最も深く自分のうちに入り込んでも、出会うのは熱や寒さ、愛や憎しみといった「何か特定の知覚につまずく」ことだけで、知覚なしに自分をとらえることはできない。熟睡して知覚が途切れているあいだは、自分を感じず、存在しないと言ってよい。死によってすべての知覚が取り除かれるなら、自分は無に帰する。完全な非存在とするのに、これ以上何が必要なのか思い描けない、と彼は言う。別の概念をもつ人とは、もはや推論できないと認めつつ、その人も同じく正しいかもしれないと譲る。ただし自分は、自分のうちに単純で継続的な原理がないことを確信している、と述べる。

この種の形而上学者を除く、ほかの人類は、種々の「知覚の束あるいは集まり」にほかならない、と彼は断言する。知覚は思い描けないほどの速さで継起し、絶えず流れ動いている。心は一種の劇場のようなものだが、厳密には、ある時点での単純性も、異なる時点にわたる同一性も、心にはない。劇場の比較に引きずられてはならない。場面が演じられる場所や、それが何でできているかについて、われわれは何の概念もないのである。

同一性は想像力が帰するものである

それなら、なぜわれわれは自分に不変で中断のない存在を想定するのか。ヒュームはまず、問題を二つに分ける。思考や想像力にかかわる同一性と、情念や自己への関心にかかわる同一性であり、ここで扱うのは前者である。

鍵になるのは、不変の対象を眺めるときの心の働きと、密接に関係した対象の継起をたどるときの心の働きが、感じとしてほとんど同じだということである。そのため両者は混同され、継起するものに同一性が帰される。ヒュームは、物質のかたまりの小さな変化、頻繁に修理される船、幼い苗から育つ樫の木を例に挙げ、変化が気づかれにくく、部分が目的や因果で結ばれているほど、われわれは同じものと見なすことを示す。

では、知覚を結びつける実在的な絆が心のなかにあるのか。ヒュームは、知性は対象のあいだに実在的な結合を観察しないという、すでに立証された点を思い出させる。同一性は知覚に実際に属するのではなく、想像力のなかで観念が結びつくがゆえに帰される性質にすぎない。その結びつきを生む関係は、近接を除けば類似と因果性である。

記憶は何をするのか

類似の面では、記憶が過去の知覚の像を呼び起こす。似た知覚が思考の連鎖に並ぶと、想像力はいっそう容易に環から環へ移る。因果性の面では、ヒュームは魂を共和国に比べる。成員が入れ替わり、法律や国制が変わっても、同じ共和国であり続けるように、人格も性格や気質を変えながら、因果の関係でなお結ばれている。

ヒュームは、記憶が類似の関係を通じて同一性の産出にも寄与することを認める。そのうえで、因果の概念を得てしまえば同一性は記憶の外にも延びる、と言う。1715年1月1日に何をしていたかを誰が言えようか、という問いがその根拠である。だから記憶は同一性を生み出すというより、知覚のあいだの原因と結果の関係を示すことで、それを発見するのだと述べる。

最後に、関係も移行の容易さも少しずつ減りうるので、人格の同一性についての微妙で精緻な問いはすべて決定できず、哲学的というより文法上の困難とみなされるべきだ、と彼は言う。第6節は、哲学の諸体系の検討を終えたと述べて閉じられ、続く第7節でヒュームは、自分が企てた航海をいったん立ち止まって思案する。

道筋をふり返って

このシリーズは、印象と観念から出発し、因果、信念、必然的結合を経て、外にある物、そして最後に自己へと歩んできた。必然性と自己では、ヒュームはその観念はどの印象に由来するのかと問い、見つからなければ、その観念を心の習慣や想像力のはたらきから説明した。外にある物では、問いは何が物体の存在を信じさせるのか、であった。ぜひ翻訳HTMLで、原文に沿って読み返してほしい。本記事で触れた物質のかたまりや船、樫の木の例には、その箇所の丁寧な運びがあり、要約では伝えきれない。