世界が本当にあるのかどうか、疑ってみよう、という話ではない。フッサールが『イデーン 第一巻』の第二篇第一章の後半(§31〜§32)で求めるのは、疑いとも否定とも違う、独特の操作である。
デカルトの懐疑を手がかりに
自然的態度の一般定立は、持続的に成り立っている。フッサールはこれを変更するために、デカルトの普遍的な懐疑の試みに結びつける。ただし、デカルトがしたように絶対に疑いえない存在圏域を取り出すためではなく、方法上の補助手段として使うにすぎない、とあらかじめ断る。どれほど固く確信しているものでも、疑ってみることは、私たちの完全な自由の領域に属する。
疑うとき、何が起きているのか
ある存在を疑う者は、同時に、その存在を「存在する」という性格において意識してはいられない。疑いを試みることは、定立のある種の廃棄を条件づける。しかしフッサールによれば、それは、定立が反定立に、措定が否定に変わることではない。推測や憶測、未決定、疑いに変わることでもない。
私たちは、すでに遂行した定立を放棄せず、確信にも何も変更を加えない。それでも、この定立は一つの変様を被る。定立は元のままにとどまりながら、われわれはそれをいわば「作動から外し」、「遮断し」、「括弧に入れる」。定立はなおそこにあるが、括弧のなかの括られたものとしてそこにある。「定立は体験だが、われわれはそれを「使用しない」」とも言い換えられる。
これは、意識を失った者が定立を使用しない、という意味の欠如ではない。フッサールは、これを一つの独特な意識の仕方と呼ぶ。根源的で単純な定立に加わり、それをまさに独特な仕方で評価し直す。この評価替えは、私の完全な自由に属する。
エポケーとは、判断の控えである
こうして取り出されるのが、ギリシア語のἐποχήに由来する「エポケー」、すなわち判断の控えである。フッサールは、括弧入れや遮断の現象が、疑いの試みから特に容易に切り離せる、と述べる。あらゆる定立に関して、完全な自由において、この独特なエポケーを行える。それは、真理についての揺らがない確信と両立する。定立は「括弧に入れられた定立」に、判断そのものは「括弧に入れられた判断」に変わる。
この意識を、水の精が輪舞を舞っているということを「ただ思い浮かべる」意識と、単純に同一視してはならない、とフッサールは注意する。そこでは、生きており生き続ける確信の遮断が行われていない。両者が近縁であることは認めたうえで、である。
世界の全体を括弧に入れる
では、何を括弧に入れるのか。もしエポケーを可能なかぎり包括的にすれば、あらゆる判断可能な対象性が括弧に入り、変様されていない判断のための領域は残らず、学問のための領域も残らない。ところが、フッサールの狙いは、新しい学問的領野の発見にある。そこで彼は、エポケーの普遍性を限定する。
自然的態度の本質に属する一般定立を、作動から外す。そして、その一般定立が存在的な観点で包括するもの、すなわち、絶えず「目の前にあり」、括弧に入れたいと思っても、意識の上での「現実」として常にそこにあり続ける自然的世界の全体を、括弧に入れる。
そのとき私は、この世界を、ソフィストのように否定しない。懐疑論者のようにその定在を疑いもしない。ただ「現象学的」エポケーを行い、空間的・時間的な定在についてのあらゆる判断が、私に完全に閉ざされる。この世界に関係する学問のすべても同じである。どれほど確固としていて、どれほど感嘆していても、その妥当をまったく使用せず、世界の現実についての真理として理解されるかぎり、命題を一つも自分のものにしない。受け入れてよいのは、括弧を付けたあと、判断遮断という変様した意識のなかでだけである。
これは、実証主義が要求する遮断とも違う。先入見を遠ざけることでも、理論から自由な学問を構成することでもない。自然的態度で措定された世界の全体は、「理論から自由に」、経験に即して明晰に受け取ったとしても、いまのフッサールにとっては何の意味ももたない。この世界は、吟味されないまま、しかし異議も唱えられないまま、括弧に入れられるべきだ、というのである。
世界を括弧に入れたあとに、何が残るのか。その問いは、次の章(第二篇第二章「意識と自然的現実」)で、意識と自然的現実の関係として調べられていく。次の記事では、その調べのなかで、物の知覚がどのように与えられるかを読む。