黒板に図形を描く幾何学者がいる。描いた線は、黒板の上に事実として生み出された線である。それでも、その図形について彼が確かめたいことは変わらない。幻覚のなかの黒板に描いていても、頭のなかで線を引いていても同じだ、とフッサールは言う。

『イデーン 第一巻』の第一篇第一章(§1〜§17)は、この「同じ」ことの理由を、事実と本質の区別から説き起こす。その前半(§1〜§7)を順にたどってみよう。

事実は、別様でもありえた

フッサールはまず、経験科学を「事実」学と呼ぶ。経験は、実在的なものを、この時間、この場所、この形態にある個体として措定する。しかしそのものは、本質からすれば、別の場所に、別の形態であってもよかったはずである。個体的存在は一般に「偶然的」であり、「それはこうあるが、その本質からすれば別様でもありえた」。自然法則も、事実上の規則づけを表現するにすぎない。

ただし、偶然であるとは、本質をもたないということではない。どの事実も「それ自身の本質からして」別様でありうる、と言うとき、すでに、偶然的なものの意味には一つの本質をもつことが属する、と言われている。どの音も、それ自体で一つの本質をもち、その最上位に、音響的なもの一般がある。どの物質的な物も、その最上位に「物質的な物一般」をもつ。

本質を「見る」とは

個体を経験する直観は、本質を見る直観、すなわち本質直観(イデーション)へ転換できる、とフッサールは言う。私たちの例で言えば、鳴っているこの音を聞きながら、その音の個別性ではなく、音という本質のほうへ視線を向け直す。そのとき直観されるのが、純粋な本質(エイドス)である。

この本質は「新種の対象」だとされる。個体的直観に個体が与えられるように、本質直観には純粋な本質が与えられる。本質直観が、厳密な意味で見て取る作用であり、単なる、おそらくは漠然とした現前化ではないなら、それは原的に与える直観であり、本質をその「有体的」な自体性において把握する。フッサールはさらに、エイドスや本質という概念にまとわりつく思想、一部は神秘的な思想も、そうした思想は、この把握のなかではきれいに除かれたままになる、と述べている。

想像からでも、本質は見える

本質を見るために、現実の経験は必須ではない。知覚や想起の所与からでも、単なる想像の所与からでも、同じ本質を原的に把握できる。空間的な形態や旋律、社会的な出来事を自由に思い描くとき、そこから多様な純粋な本質を直観できる。想像されたデータが現実のデータであることは、決してない。それでも、対応する本質の原的な所与性は何も変わらない。

逆の面もある。純粋な本質真理は、事実についての主張を含まない。だから、本質真理だけからは、ごくわずかな事実真理さえ推論できない。事実についての思考は基礎づけのために経験を必要とし、純粋な本質についての思考は、基礎づける土台として本質直観を必要とする。

「すべての物体は重い」と「すべての物質的な物は延長をもつ」

本質の一般性と、自然法則の一般性は、混同してはならない。「すべての物体は重い」という命題は、特定の物的なものを定在するものとして措定しない。それでも、自然法則としては、自然そのもの、空間的・時間的現実の措定を伴っている。だから、形相的に一般的な命題がもつ無条件の一般性をもたない。

これに対して、「すべての物質的な物は延長をもつ」という命題は、物質的な物の本質と延長の本質にもっぱら基づく。主語の側の定在の定立が遮断されるなら、純粋に形相的な命題として理解できる。空間内の現実のものがこの真理に対応するのは、単なる事実ではなく、本質法則の特殊化としての本質的必然性である。事実であるのは、適用が行われる当の現実のものだけだ。

幾何学者と自然研究者

以上を踏まえて、冒頭の場面に戻ろう。幾何学者は、黒板に図形を描く。しかし、その物理的な産出が基礎づけにならないのと同様に、産出されたものを彼が経験することも、経験することとしては、彼の幾何学的な本質直観と本質思考の基礎づけにならない。彼が探究するのは、現実ではなく「観念的な可能性」、現実事態ではなく本質事態であり、経験の代わりに本質直観が最終的に基礎づける作用になる。

自然研究者はまったく異なる。彼は観察し、実験し、経験に基づく定在を確認する。彼にとって経験することは基礎づける作用であり、単なる思い描きでは決して代わりがきかない。だからこそ、事実学と経験科学は同値の概念なのだ、とフッサールは述べる。

個体的対象と本質のあいだには、あらゆる個体にその本質が属し、あらゆる本質に可能な個体が対応する、という連関が成り立っている。『イデーン 第一巻』はこのあと、本質認識を妨げる誤解を片づけたうえで、第二篇で、私たちが世界にふだん向かう態度そのものを調べはじめる。次の記事では、その入り口をのぞいてみよう。