物の世界が、すべて絶滅したとしよう。そのとき、意識は残るのか。フッサールは『イデーン 第一巻』の第二篇第二章・第三章(§46〜§49)で、この思考実験を提示する。答えは、世界の絶滅によって意識はたしかに変様されるが、その現存は損なわれない、というものだ。

疑いえない体験と、疑いうる物

反省的に自分の体験へ向かうとき、私は絶対的な自己を把握しており、その定在は原理的に否定されえない。そこで私は端的に、必然的にこう言う。「私はある、この生はある、私は生きている、コギト」。

虚構された体験でも同じだ、とフッサールは言う。思い浮かべられるものは単なる虚構でありうるが、思い浮かべること自体、すなわち虚構する意識は、それ自身は虚構されたものではない。私が感情移入的な経験において措定する他者の意識がすべて存在しない、という可能性には背理がない。だが、私の意識は、本質においてだけでなく、現存においても、原的に、絶対的に与えられている。

これに対して、物の世界は、その領域内ではどれほど完全な知覚も絶対的なものを与えない。どれほど広範囲に及ぶ経験も、与えられたものが存在しないという可能性を開いたままにする。あとになって、それは単なる錯覚だった、幻覚だった、単なる首尾一貫した夢だった、と言われることが、つねにありうる。体験の圏域では、こうした出来事は本質上排除される。

こうして、世界の定立は「偶然的」であり、私の純粋自我と自我生の定立は「必然的」で、端的に疑いえない、とされる。世界が疑わしいのは、整合的な経験の力に対抗する理性的な動機があるからではない。疑いが考えうるのは、非存在の可能性が、原理的な可能性として決して排除されないからである。

世界が崩れた場合を考える

フッサールは、世界が存在しなければならない、とは言えないと述べる。世界の現存は、ある本質形態をもつ経験の多様の相関者である。しかし、現勢的な経験がその連関形式のなかでしか経過しえない、とは洞察できない。経験が調停できない抗争に満ち、射映、統握、現出の確固たる規則秩序を失い、もはや世界が存在しない、ということも十分に考えうる。

そのとき、世界の絶滅によって、意識はたしかに変様される。世界の絶滅とは、体験の流れにおいて、ある秩序ある経験の連関と、それに沿って方向づけられる理論化する理性の連関が、排除されることにほかならないからである。しかしそれは、ほかの体験や体験の連関が排除されることを含まない。したがって、意識に即して諸現出によって自らを呈示し証示するような実在的な存在は、意識そのものの存在にとって必然的ではない。

世界が存在することは、意識にとって必然的ではない、と言うのである。内在的存在は、nulla「re」indiget ad existendum という意味で、疑いなく絶対的存在である。他方、超越的な「res」の世界は、まったく意識に、しかも論理的に考えられた意識ではなく現勢的な意識に依存している。

意識と実在のあいだの深淵

こうしてフッサールは、意識すなわち体験と、実在的な存在とが、決して同格の存在の種類ではない、と述べる。両者は、平和に並んで住まい、ときおり互いに「関係し」たり「結びついたり」するようなものではない。「意識と実在のあいだには、意味の真の深淵が口を開けている」。一方には、射映し、決して絶対的には与えられえず、単に偶然的で相対的な存在がある。他方には、必然的で絶対的な存在があり、原理的に射映や現出によっては与えられない。

人間の自我とその意識体験が世界の中に実在的に存在する、という語り方も、それぞれの意味では十分に根拠づけられている。しかし、意識を「純粋性」において考察するなら、それは自分で閉じた、絶対的存在の連関とみなされねばならない。他方、世界の全体は、その意味からして単なる志向的存在であり、意識にとっての存在という、二次的で相対的な意味しかもたない。

世界の存在が、意識に対して二次的で相対的な意味をもつ、というのは、どういうことなのか。意識が世界の物をどのような「意味」として持つのかは、第三篇第三章で、ノエシスとノエマの区別として分析される。次の記事で、その入り口を読もう。