理性には、経験の範囲を超えて、もっと先まで知りたいという抑えがたい欲求がある。カントは『純粋理性批判』の後半、超越論的弁証論で、この欲求がどこでどうつまずくのかを、丹念にたどっていく。最初の舞台は「魂」である。

「私は考える」から魂の不死へ

合理的心理学と呼ばれる伝統的な哲学は、「私は考える」という一点から出発して、魂が単一で不滅の実体であることを証明しようとしてきた。だが、カントの診断は厳しい。「私は考える」という自己意識は、たしかにあらゆる思考にともなっている。しかし、それはあくまで思考の形式的な統一を示しているだけであって、魂という一つの実体が経験を超えて存在し続けることの証明にはならない。

経験を超えたところへのカテゴリーの誤用

ここでカントが指摘するのは、経験の対象についてしか適用できないはずのカテゴリー(実体性など)を、経験を超えた魂そのものに適用してしまう、という推論上の誤り――誤謬推理である。魂が「考える主体である」ということと、魂が「経験を超えて存続する実体である」ということのあいだには、実は埋められない溝がある。カントは、当時の哲学者メンデルスゾーンによる魂の不死の証明を、名指しで取り上げて反論してもいる。

否定ではなく、越権の指摘

これは魂の不死を否定する議論ではない。理性が、証明できないことを証明できるかのように扱ってしまう、その越権を指摘しているのである。魂が不死であるかどうかは、理論理性の手には負えない問いとして、いったん保留される。

四つの誤謬推理

初版の『純粋理性批判』では、この誤りは四つの推理に分けて分析されている。魂が実体であるという誤謬推理、魂が単一であるという誤謬推理、魂が時間を通じて人格として同一であるという誤謬推理、そして魂が外的な物とは別に存在するという誤謬推理である。カントは、それぞれの推理が、経験の対象にしか適用できないカテゴリーを、経験を超えた魂という主語に不当に適用していることを、一つずつ示していく。

デカルトのコギトとの違い

この章は、デカルトが『省察』で「我思う、ゆえに我あり」から出発し、心を一つの実体として確立しようとした試みへの、間接的な応答にもなっている。カントは、「私は考える」が確実であることは認める。しかし、そこから「だから私という実体は不滅である」へと進む一歩には、正当な根拠がないと指摘する。デカルトが確実な出発点と考えたものを、カントはむしろ、理性が踏み越えてはならない境界線の、まさにその手前に置き直したのである。