図式論によってカテゴリーが現象に適用可能になったところで、カントは「経験の類推」という一連の原則を展開する。ここで問題になるのは、時間のうちで生起するさまざまな現象を、私たちがどうやって「一つの経験」としてつなぎとめているのか、という問いである。
変化の土台としての実体
第一の類推は、実体の持続性を語る。現象は絶えず移り変わるが、その変化の「土台」として、持続する何かが想定されなければ、変化そのものを「変化」として認識することすらできない。川の水は絶えず流れ去っているが、「川」という同じものが流れている、と私たちが言えるのは、この持続する基体という考えが、すでに働いているからである。
因果性という時間の規則
第二の類推は、因果性の法則にしたがう時間的な継起を語る。ある出来事が別の出来事に必然的に続くと私たちが判断できるのは、そこに因果性というカテゴリーが働いているからである。カントは、川を下る船の例を挙げる。船の位置についての私たちの知覚は、上流から下流へという決まった順序でしか生じない。この順序の必然性こそが、単なる主観的な知覚の並びと、客観的な出来事の継起とを区別する印になる、と論じる。
相互作用という同時存在の規則
第三の類推は、相互作用にもとづく同時存在を語る。同時に存在する複数の実体が、互いに影響を及ぼしあっているという想定があってはじめて、私たちはそれらを「同じ一つの経験世界の中にある」と認識できる。
この三つの類推は、バラバラな現象の集まりを、一つの秩序だった自然として経験するための、いわば土台工事である。三つとも、感覚だけでは決して与えられない――むしろ、感覚を秩序立てて受け取るために、あらかじめ働いていなければならない規則なのである。
なぜ「類推」と呼ばれるのか
これらの原則が「類推」と呼ばれるのには理由がある。数学的な類推(たとえば比例式)が、二つの項の関係から第三・第四の項を確実に導き出せるのに対し、経験の類推は、そこまで確実に個々の内容を導き出せるわけではない。むしろ、現象どうしがどのような規則的な関係の中にあるべきかを指し示す、いわば探求の指針としての役割を果たす。だからこそカントは、控えめに「類推」という言葉を選んでいる。
観念論論駁への布石
この経験の類推の議論は、続く「観念論論駁」――外界の物が本当に存在することを疑う立場への反論――の土台にもなっている。持続する実体、時間的に規則正しい因果関係、相互に影響しあう複数の実体という枠組みが、すでに経験の条件として働いているならば、外的な物の存在を疑う懐疑論者の足場そのものが、実はすでにこの枠組みを前提にしていることになる。カントはこの逆説を突くことで、外界の実在についての疑いに反論していく。