前の記事では、タレスの「水」から始まった原理の探求が、やがて「知性」という原因の発見にたどり着くところまでを見ました。宇宙の秩序の原因として知性を立てたアナクサゴラスを、アリストテレスは、それまでの人々のなかで「ただ一人素面の者」のように見えた、とまで評していました。ところが、続く第四章で、アリストテレスはそのアナクサゴラスを手厳しく批判します。せっかく正しいものを見つけたのに、何がいけなかったのでしょうか。
世界を動かし、結びつけるもの
第四章は、運動の原因を最初に探したのは誰か、という問いから始まります。アリストテレスが候補に挙げるのは、詩人ヘシオドスや、パルメニデスです。パルメニデスは宇宙の生成を語るにあたって、「もろもろの神々のうちで、真っ先にエロースを案出した」と語っていました。ヘシオドスもまた、カオスと大地の後に、神々のうちでとりわけ秀でたものとしてエロースを歌っています。事物を動かし、結びつける何らかの原因が、存在するもののうちになければならない――彼らの言葉の背後には、そうした考えがある、とアリストテレスは読みます。
さらに、自然のうちには秩序や美しさだけでなく、無秩序や醜さもある。しかも悪しきもののほうが善きものより多いようにさえ見える。そこでエンペドクレスは、「愛」と「争い」という二つの原因を持ち込みました。アリストテレスは、エンペドクレスの口ごもるような言い回しではなく、その思想に即して読むなら、愛は善きものの原因、争いは悪しきものの原因であり、彼こそ、ある意味で悪と善を原理として語った最初の人物だと言ってよいだろう、と述べています。
見事な一撃は、知識ではない
こうして最初の哲学者たちは、四つの原因のうち、質料の原因と、運動がそこから始まる源としての原因とに触れていました。ただし、アリストテレスの評価はこうです。それは、ぼんやりとした、明晰でない仕方にすぎなかった。そしてこのたとえを添えます。
「訓練を積んでいない者も、動き回るうちに、しばしば見事な一撃を打つことがあるが、それは知識に基づくものではない。」(第一巻第四章 985a)
正しい原因に手が届いていても、それが何であるかを分かって使っているわけではない。これが、アリストテレスが先人たちに向ける基本的な不満です。第一巻第一章で、知恵ある者とは「なぜ」を知っている者だとされていたことを思い出すと、この批判の重みが分かります。
行き詰まったときだけ、呼び出される「知性」
その典型として挙げられるのが、アナクサゴラスです。
「たとえばアナクサゴラスは、宇宙の生成を説明するにあたって、知性をいわば機械仕掛けのように用いる。」(第一巻第四章 985a)
機械仕掛けのように、という言い方は、ギリシャ悲劇で、筋の収拾がつかなくなったところに機械で吊られた神が現れて一気に片をつける、いわゆる「機械仕掛けの神」を思わせます。アリストテレスによれば、アナクサゴラスは、あることが必然的にそうなっている原因について行き詰まると、そのときになって知性を引っ張り出してくる。しかしそれ以外の場合には、生成する事柄の原因として、知性よりもむしろほかのあらゆるものを挙げている、というのです。宇宙全体の秩序の原因として知性を立てておきながら、実際の説明ではほとんど使っていない。困ったときの助っ人にしかなっていない、という批判です。
アナクサゴラスとエンペドクレスへの批判が語られる第一巻第四章は、翻訳HTMLの試し読み版で、全文を無料でお読みいただけます。
「愛」が分け、「争い」が結ぶ
エンペドクレスは、アナクサゴラスより多くこれらの原因を用いていますが、アリストテレスはこちらにも首尾一貫していない点を見つけます。争いによって万物が元素へと分かれるとき、火は火どうしで、ほかの元素もそれぞれ一つに結合する。逆に、愛によってすべてが一つに集まるときには、それぞれの元素の部分が、もとのまとまりから分離しなければならない。つまり、多くの場合、結びつけるはずの愛が分離させ、分けるはずの争いが結合させることになってしまう、というのです。
それでもアリストテレスは、エンペドクレスの功績も認めています。運動の原理を一つではなく、対立する二つとして立てたこと。そして質料としての元素を四つだと最初に述べたこと。もっとも、実際の使い方では、火を一方に、土と空気と水をまとめて他方に置き、四つをあたかも二つであるかのように扱っている、とも付け加えています。
形・配列・位置――原子論者の答え
章の最後に登場するのは、レウキッポスとデモクリトスです。彼らは、充実したものと空虚なものとを元素とし、前者を存在するもの、後者を存在しないものと呼びました。そして、ものどうしの違いは、形と配列と位置という三つの差異だけから生じると説明します。アリストテレスが紹介する例は、文字です。AとNは形において異なり、ANとNAは配列において異なり、ZとHは位置において異なる。わずかな種類の要素と、その並び方の違いだけで世界を説明しようとする発想は、今読んでも驚くほど鮮やかです。
しかし、ここでもアリストテレスの評価は変わりません。運動がどこから、どのようにして存在するものに備わるのかについては、彼らもまた、ほかの人々と同様に「怠って手つかずのまま残した」。質料と運動という二つの原因は、ここまで、この程度まで探求されてきた――第四章はそう締めくくられます。
正しい答えの近くまで来ていながら、それを原因として使いこなせていない。アリストテレスが先人たちに見ていたのは、そうしたもどかしさでした。次の記事では、質料でも運動でもなく、「数」こそが万物の原理だと考えたピュタゴラス派を取り上げます。