「我思う、ゆえに我あり」。疑い尽くした果てに、それでも疑っている「私」だけは存在する――そう結論づけた、17世紀デカルトの、あまりに有名な一言です。

実はこれとよく似た、しかしどこか違う一言を、デカルトより2000年以上も前に、ある哲学者が書き残しています。パルメニデスという名前は、デカルトほど広く知られていないかもしれません。しかし彼が紀元前5世紀に書いた、たった一行のこの言葉は、西洋哲学の土台の一つになったと言っても過言ではありません。

「思惟することと存在することは、同じことだ」

今日は、この一行を手がかりに、パルメニデスという哲学者の入口に立ってみます。

「同じことだ」――デカルトとの、決定的な違い

まず、デカルトの言葉と並べてみましょう。

デカルト:「私は考える、ゆえに、私は存在する」

パルメニデス:「思惟することと存在することは、同じことだ」

似ているようで、実は構造がまったく違います。デカルトの言葉には「ゆえに」があります。これは、考えているという事実から、存在するという結論を導き出す、という一方向の推論です。疑いに疑いを重ねた末、最後に残った足場から、一歩を踏み出す身振りです。

一方、パルメニデスの言葉には、そうした推論の身振りがありません。「同じことだ」――思惟することと、存在することは、最初から等しい、一つのことなのだと、いきなり言い切ってしまいます。ここには「疑う私」も「疑い尽くした末に」という手続きもありません。パルメニデスにとって、この等しさは、証明されるものというより、そこから出発すべき原理そのものです。

なぜ、そう言い切れるのか

とはいえ、パルメニデスもまったく根拠なしにこう言っているわけではありません。この一行の少し前、断片Ⅱで、彼は次のような議論を展開しています。

探究において考えられる道は、二つしかない。一つは「存在して、存在しないことはできない」という道。もう一つは「存在しない、当然、存在しない」という道。しかし後者の道は、まったく行き止まりだ、とパルメニデスは言います。なぜなら、「存在しないもの」を知ることも、語ることもできないからです。

これは、少し考えると腑に落ちる話です。何かについて「語る」とき、私たちは必ず、その「何か」を思い浮かべています。存在しないものを語ろうとしても、その瞬間、語ろうとしている対象は、少なくとも「語られる対象」として、思考の中に存在してしまっている。「無について語る」ことそのものが、成り立たない試みだ、というわけです。

つまり、思惟できるものは、必ず何らかの仕方で存在していなければならない。逆に、存在するものだけが、思惟の対象になりうる。この二つが、コインの表と裏のように、切り離せない関係にある――これが、断片Ⅲの「同じことだ」という一言の、背後にある論理です。

この一行が、その先に開いた世界

この原理は、パルメニデスにとって、単なる言葉遊びではありませんでした。ここから彼は、驚くほど大胆な結論を、次々と導き出していきます。

「存在しないもの」を前提にしないと語れないことは、すべて否定されます。何かが「生まれる」というのは、「存在しなかったもの」が「存在するもの」になることです。しかし「存在しないもの」は思惟も言明もできないのだから、そこから何かが生まれることもありえない。同じ理由で、何かが「滅びる」ことも、「存在するもの」が「存在しないもの」になることを意味するので、ありえない。

生成もせず、消滅もせず、変化もしない、ただ一つの、完全な「存在するもの」。パルメニデスが最終的にたどり着くのは、私たちが日常的に経験している、絶えず移り変わる世界の姿とは、まるで違う結論です。

2000年以上の時を超えて、繰り返された問い

「思惟することと存在することは、同じことだ」。この一行と、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を並べてみると、興味深いことに気づきます。

デカルトは、あらゆるものを疑い尽くした結果として、「考えている私」という一点にたどり着きました。パルメニデスは、そもそも「考える」ということが成り立つための条件として、「存在する」ということを、最初から等しいものとして置きました。出発点も道筋もまるで違うのに、どちらも「思惟」と「存在」という、同じ二つの言葉を軸に、哲学の土台を築こうとしています。

西洋哲学の歴史は、しばしば「パルメニデスとヘラクレイトス」という、対照的な二人の哲学者から始まったと言われます。そして、その2000年以上後に現れたデカルトもまた、形を変えながら、思惟と存在という同じ主題に立ち返っている。哲学というものが、いかに息の長い対話の連なりであるかを、この一行は静かに物語っています。