「思惟することと存在することは、同じことだ」——前回の記事で見た、パルメニデスのあの一行は、実は詩の断片、しかも「女神が語った言葉」として伝えられています。パルメニデス『自然について』は、論文ではなく、六脚韻で書かれた一篇の詩なのです。

その詩は、こんな不思議な場面から始まります。

馬車に乗って、女神のもとへ

「馬たちが、心の赴くかぎり遠くへわたしを運ぶ」。断片Ⅰは、こう語り出されます。語り手(パルメニデス自身とされる「わたし」)は、太陽神の娘たちに導かれ、夜の館を後にして、光の中へと馬車を進めていきます。やがて「夜と昼の道の門」にたどり着き、正義の女神ディケーがその鍵を開けると、まっすぐな大路の先で、一人の女神が語り手を迎えます。

女神は語り手の手を取り、こう告げます。「あなたをこの道へ送り出したのは、悪しき運命ではない。正義の女神ディケーと法がそうしたのだ」。そして、これから語り手が学ぶべき二つのことを予告します。「揺るぎない真理(アレーテイア)のよく丸い核心」と、「死すべき者たちの思い込み」です。

なぜ、こんな形式を選んだのか

現代の哲学書であれば、いきなり「存在するとは何か」という主題から始めても不思議ではありません。しかしパルメニデスは、抽象的な議論に入る前に、わざわざ「無知から知への旅」を、神話的な場面として演出しました。夜の領域から光の領域へ進む馬車の描写は、そのまま「思い込みから真理へ」という、詩全体の構図を先取りしています。

登場する神格にも、細かな役割分担があります。旅の最初に道を示すのは「精霊(ダイモン)」、門をくぐった先で教えを授けるのは「女神(テア)」。原典では、この二つがはっきり使い分けられています。断片全体を貫く「丸さ」のイメージ(真理の「よく丸い核心」)も、後の断片Ⅷで存在そのものを「よく丸い球」にたとえる場面と、みごとに呼応しています。

登場する神格の名前にも、当時のギリシャ的世界観がよく表れています。門の鍵を握るディケー(正義)、旅の終盤で語り手を縛りつけるモイラ(運命)・アナンケー(必然)——これらは、単なる装飾ではなく、パルメニデスの議論そのものを支える役割を担っています。断片Ⅷでは、存在するものが「必然」によって動かないよう縛られている、という言い方が繰り返し出てきますが、この発想は、断片Ⅰの神話的な旅の場面で、すでに準備されていたのです。

この「旅」という枠組みそのものが、詩の後半にある重要な意味を持ちます。真理を語る女神と、思い込みの世界を語る女神は、実は同一人物です。真理を知った者であっても、なお思い込みの世界について学ぶ必要がある——この姿勢は、断片Ⅰの冒頭から、すでに一貫して示されていたことになります。

「二つの教え」という構成そのものが、詩の設計図

女神が予告する「真理」と「思い込み」という二つの教えは、単なる前置きではありません。実際、詩全体は、断片Ⅱから断片Ⅷまでが「真理の道」を、断片Ⅸ以降が「死すべき者たちの思い込みの世界」を扱うという、はっきりした二部構成になっています。つまり断片Ⅰは、これから語られる詩全体の設計図を、旅という形式に託して示している場面なのです。

次の記事では、この「真理の道」の入口で、パルメニデスがどのように議論を組み立てているのか——「存在しないもの」について、なぜ一言も語れないのか、という問いを見ていきます。