女神への旅を終え、いよいよ本題に入ったパルメニデス。彼がまず示すのは、探究というものには、そもそも何通りの道があるのか、という、驚くほど根本的な整理です。

思惟できる道は、ただ二つ

女神はこう語ります。「探究において思惟できる道はただ二つだ」。第一の道は「存在して、同時に存在しないことはできない」というもの。これは「説得(ペイトー)の道」であり、真理(アレーテイア)に従います。第二の道は「存在しない。当然、存在しない」というもの。しかしこちらは「まったく知ることのできぬ小道」だと、女神は言い切ります。

なぜ第二の道は、それほどまでに絶望的なのでしょうか。理由はシンプルです。「存在しないものを知ることはできない。語ることもできない」から。

「無について語る」ことの、隠れた矛盾

少し立ち止まって考えると、これは意外に手強い議論です。何かについて「語る」とき、私たちは必ず、その「何か」を思い浮かべています。存在しないものを語ろうとしても、語ろうとしているまさにその瞬間、その対象は、少なくとも「語られる対象」として、思考の中にすでに存在してしまっている——「無について語る」ということそのものが、成り立たない試みなのだ、というのがパルメニデスの見立てです。

言い換えれば、「存在しないもの」を主語にした文を、そもそも作ることができない。「存在しないものは、こうこうだ」と言おうとした瞬間、その「存在しないもの」を話題として取り上げてしまっている以上、それはもはや純粋な無ではなく、「語られている何か」になってしまうのです。

後にプラトンは、対話篇『ソピステス』の中で、この「非存在は語りえない」というパルメニデスの立場そのものを検討の俎上に載せ、「他なるもの」という概念を導入することで、この難問に別の角度から取り組むことになります。断片Ⅱのこの一節が、二千年以上先の哲学者にまで、宿題として引き継がれていったわけです。

この議論は、現代の論理学者やことばの哲学者からも、しばしば取り上げられます。「存在しないもの」を主語にした文(例えば「ペガサスは存在しない」)は、本当に何も指していないのか、それとも「ペガサス」という観念そのものは、語る対象として何らかの形で成り立っているのか——このいわゆる「非存在のパラドックス」の、もっとも古い原型が、この断片Ⅱにはすでに含まれていると言われることがあります。

この一行が、断片Ⅲへの伏線になっている

この断片Ⅱの議論は、実は前回までにご紹介した、あの有名な一行——「思惟することと存在することは、同じことだ」(断片Ⅲ)——の、いわば土台です。存在しないものが思惟の対象にも、言明の対象にもなりえないのなら、逆に言えば、思惟できるもの・語れるものは、必ず何らかの仕方で存在していなければならない。断片Ⅲの一行は、この断片Ⅱの議論を、極限まで凝縮した言い方だったのです。

次の記事では、この「存在の道」を選んだ先で、パルメニデスが「存在するもの」そのものに、どのような性質を見出していくのかを見ていきます。生成も消滅もしない、分割もできない、球のように完全な存在——その全体像を、七つの「徴」として整理していきます。