ソクラテスは、自分のことを「虻(アブ)」にたとえます。虻といえば、馬などにたかる、うるさい虫です。裁判で命がかかっているというときに、なぜわざわざ、そんな虫を自分にたとえたのでしょうか。この場面を読むと、答えは大きく三つに分けられそうです。虻は、鈍くなった相手を刺激して目覚めさせること。そのために神があてがった存在であること。そして、自分を殺せば、損をするのは相手のほうだということです。

「哲学をやめれば放免する」と言われたら

比喩が出てくる少し前から、話を追いましょう。ソクラテスは、こんな仮定を持ち出します。もし諸君がアニュトスの言うことに従わず、「もはやこの探究に時を費やすことも、哲学することもやめる」という条件で私を放免すると言ったら、どうするか。ただし、今後もそれを続けているところを見つかれば死刑だ、という条件つきです。

ソクラテスの答えは、はっきりしています。「私は諸君を敬愛し、いとおしく思う」と言いながら、そのうえで、諸君よりもむしろ神に従うと言います。そして、「私に息のある限り、そして力の及ぶ限り、哲学することをやめはしない」と続けます。命と引きかえの取引を、彼は最初から断っています。彼にとって哲学は、続けるかやめるかを自分で決められるものではなく、神に従うことそのものだった、と読めます。

出会う人に、魂の世話を問い続ける

では、やめないで何をするのか。ソクラテスは、いつも出会う人に向かって語りかける言葉を、あらかじめ示します。あなたはアテナイ人で、知恵と力において最大で評判の高い国の人でありながら、金銭をできるだけ多く手に入れることには配慮を恥じず、評判や名誉についても同様でありながら、思慮についても真理についても、そして「魂ができるだけ善いものになるようにということについては、配慮もせず、心を用いもしないのか」と。

相手が「自分は配慮している」と言い返しても、ソクラテスは引き下がりません。その人に問いかけ、吟味し、論駁します。そして、徳を身につけているようには見えないのに口だけでそう言っているなら、もっとも価値のあることを軽んじ、劣ったことを重んじていると責めます。これを彼は、若い人にも年老いた人にも、外国人にも市民にも行うと言い、その根拠は、神がそうするよう命じているということだと述べます。

彼の主張は、身体や財産より先に、魂ができるだけ善いものになるよう配慮せよ、という一点に尽きます。そして、徳は金銭から生まれるのではなく、徳から金銭やその他の善きものが、私事にも公事にも生まれる、と言うのです。若者を堕落させていると非難されていることへの反論も、ここに含まれています。もし自分がこう語ることで若者を堕落させているのなら、この言葉は有害だということになるだろう。しかし、自分がこれとは異なることを語っていると言う者がいるなら、その人は何の根拠もないことを言っている、というわけです。

虻がいなくなったら、眠り続けることになる

ここでソクラテスは、聴衆に、騒ぎ立てないでほしいと頼みます。そして、自分を殺せば、害を受けるのは自分よりも諸君自身だと言います。メレトスもアニュトスも、自分を本当に害することはできない。より優れた人間がより劣った人間に害されることは許されていないと思う、と言うのです。殺されることや追放されることを、彼は大きな害悪とは考えず、人を不正に殺そうとすることのほうを、はるかに大きな害悪だと考えます。だから自分は、自分のためでなく、神から与えられたこの賜物に対して過ちを犯さないよう、諸君のために弁明しているのだ、と。この「賜物」とは、神によってこの国にあてがわれたソクラテス自身のことだと読むことができます。

その説明として出てくるのが、虻の比喩です。彼は自分を、「大きくて血統のよい馬にたかる虻のようなもの」だと言います。馬は大きいがゆえにやや鈍く、虻のようなものに刺激されて目を覚ます必要がある。馬が指しているのは、立派だが鈍くなりがちな、アテナイの人々の国だと読めます。ソクラテスは、その国を目覚めさせる者として、神が自分をあてがったのだと言い、一日中あらゆる所で、ひとりひとりに取りついて、目覚めさせ、説き聞かせ、責め立てることをやめない、と述べます。

虻は、刺激される側にとっては不快な存在です。それでも彼は、こういう者はそうたやすく現れない、と言います。しかも、聴衆がいらだって手を出す様子まで、あらかじめ思い描いています。眠りから起こされた者たちのように、私を平手打ちにして殺してしまうかもしれない。そうなれば、神が誰か別の者を遣わしてくれない限り、残りの生涯を眠り続けたまま過ごすことになる、と。

報酬を求めない証拠は、貧しさ

ソクラテスは最後に、自分が神にあてがわれた者だという証拠を挙げます。自分のことをすべて放っておき、家のことも顧みられないまま長い年月を耐えて、ひとりひとりのもとを私的に訪ね、父親や年上の兄のように徳への配慮を説き続けてきた。それは人間らしいこととは思えない、というのです。報酬を得ていたなら理由もあったでしょうが、あれほど恥知らずに私を告発した者たちでさえ、自分が報酬を得たり、要求したりしたことがあるという証人を示すことまでは、できなかったのです。その十分な証人として、彼は自分の貧しさを差し出します。

こうして見ると、虻の比喩は、ただ自分を卑下したり、笑いを取ったりするためのものではありません。国を目覚めさせるために神にあてがわれた者が、利益を求めず、殺されそうになってもやめない。そういう自分の姿を、彼はこの比喩で語っています。ところで、ソクラテスは次に、ひとつの疑問を自分から口にします。私的にはこうして歩き回って勧めているのに、公の場に立って国に助言することはしないのは、奇妙に思われるかもしれない、と。その理由は何だったのか。ソクラテス自身の答えは、翻訳HTMLの本文で読むことができます。