国が決めた判決には、従わなければならないのか。プラトン『クリトン』のソクラテスは、脱獄を勧めるクリトンに対して、自分が国の法律たちから語りかけられたとしたらどう言われるか、という形で答えを探ります。その言葉のなかに、国にとどまり続けることを「合意」と数える、独特の考え方が出てきます。国にとどまり続けたことは、なぜ「合意した」ことになるのでしょうか。
国は、出ていく道をはじめから開けている
法律たちは、まず、自分たちがソクラテスを生み、養い、教育し、ソクラテスにも他のすべての市民にも、与えられるかぎりの善いものを分け与えてきた、と確かめます。そのうえで、それでもなお国は、アテナイ人のうち望む者には誰にでも、ある自由を与えると宣言している、と言います。市民として登録され、国の事情と法律を見たうえで、法律を気に入らない者は、「自分の財産を持って、望むところへ去ってよい」という自由です。
法律たちは、これを妨げたり禁じたりする法律は一つもない、と付け加えます。国と法律が気に入らず、植民地へ行きたい者も、他のどこかへ移り住みたい者も、自分の財産を持って、望むところへ行ってよいのです。つまり、国は、意に沿わないのにとどまり続けなさいとは言っていません。出ていく道を、はじめから開けているというわけです。
とどまり続けることが、合意になる
ここで法律たちは、自分たちの側の言い分を述べます。「私たちが裁判をどう行い、国をどう治めているかを見ながら、なおとどまる者は、私たちが命じることを行うと、すでに行動によって私たちに合意したのだと、私たちは言う」。
筋道を並べてみます。市民には、出ていく自由が与えられている。国の裁判の進め方も、国の治め方も、とどまる者の目の前にある。それを見たうえで、出ていかずにとどまる。法律たちは、このとどまり続けることを、命じることを行うという合意として数えるのです。合意は、言葉で結ばれたものとしてではなく、とどまるという行動に表れたものとして語られています。
従わない者は、なぜ三重に不正なのか
そのうえで、法律たちは、従わない者は三重に不正を行っている、と言います。数えられているのは、次の三つです。「生みの親である私たちに従わないこと、養い手である私たちに従わないこと、そして、私たちに従うと合意しておきながら、従いもせず、私たちが何か善くないことをしているなら説得もしないことだ」。
はじめの二つは、生まれと養いにかかわる話です。三つ目が、いま見てきた合意にあたります。注目したいのは、その後半です。法律たちが求めているのは、何があっても黙って従うことではありません。従うか、さもなければ、法律が善くないことをしているのなら説得するか、そのどちらかです。法律たちは、こう言っています。「私たちが命じることを行うよう乱暴に押しつけるのではなく、選択を提示している」。二つのうちのどちらも許されているのに、そのどちらもしない。それが、法律たちの責める点なのです。
この責めは、ソクラテスに向けられる
法律たちの言葉は、ここで一般論から、ソクラテス個人へと向きを変えます。ソクラテスもまた、企てていることを実行するなら、これらの責めを負うことになる。しかも、アテナイ人のうちで最も軽くではなく、とりわけ重く負う、と法律たちは言います。
国にとどまることが合意になるのは、出ていく自由が開かれていて、国の治め方も見えているのに、なおとどまるからです。法律たちは、そう主張しています。ただ、最後の一言は気になります。ほかの誰でもなく、なぜソクラテスが、とりわけ重く負うのでしょうか。その理由は、法律たちが続けて挙げる事実、すなわち、国を出なかったこと、この国で子どもをもうけたこと、追放を刑として申し出なかったことに、見えてきます。