処刑を待つ牢のなかで、クリトンは、ソクラテスに脱獄を勧めます。金の用意はできている。世間の評判を考えても、ここを出たほうがよい。クリトンは、そう言います。それでもソクラテスは、すぐには動きません。彼が持ち出すのは、命が惜しいか惜しくないか、という話ではありません。何に従って決めるのか、という問いです。『クリトン』の中ほどで、この問いは、「ただ生きること」と「善く生きること」の区別に行き着きます。その道筋を、訳文にそって見ていきましょう。
多くの人々の思わくか、心得のある人の思わくか
ソクラテスは、クリトンに問います。心得のある一人の人に従わず、何も心得のない多くの人々の言葉を尊んだとすれば、何か悪い目に遭わないだろうか。クリトンは、遭うに決まっている、と答えます。その悪いことは、従わなかった人のどの部分に及ぶのか、と重ねて問われると、クリトンは「明らかに体だ。体を滅ぼすのだから。」と答えました。ソクラテスは、これを「もっともな答えだ」と受けとめます。
そして、同じことは、体のことだけでなく、正しいことと不正なこと、恥ずべきことと美しいこと、善いことと悪いことについても言える、と話を広げます。いま二人が思案しているのは、まさにこれらのことだからです。
損なわれたら生きるに値しなくなる「あのもの」
ここでソクラテスは、体と並べて、もう一つのものを持ち出します。体は、健康によいものによって善くなり、病気を招くものによって損なわれます。その体が損なわれて悪くなれば、私たちは生きるに値しない、とクリトンは認めます。では、「不正がこれを傷つけ、正しさがこれを益するあのもの」が損なわれたらどうか。不正と正義がかかわる、私たちのうちのそのものは、それが何であれ、体より劣ったものだと考えるのか。クリトンは、「けっしてそうではない」と答えます。より尊いものか、と問われると、「はるかにそうだ」と答えます。
注意したいのは、ソクラテスが、このものに名前を与えていないことです。「それが何であれ」とだけ言い、体よりもはるかに尊いものとして、二人はそれを認めています。名前の代わりに、輪郭だけがここで示されます。私たちのうちにあり、不正によって傷つき、正しさによって益を受けるもの。そこからソクラテスは、「多くの人々が私たちについて何と言うかを、それほど気にかけるべきではない」と結論します。気にかけるべきは、正しいことと不正なことについて心得のある人と、真実そのものがどう言うか、というのです。
「ただ生きること」と「善く生きること」
ソクラテスは、自分から反論を挙げます。それでも、多くの人々には私たちを殺す力がある、と言う人もいるだろう、と。クリトンも、それは当然出る反論だと認めます。ソクラテスは、この反論を打ち消そうとはしません。彼は、こう言います。「私たちが論じ尽くしてきたこの言論は、私にはなお以前と変わらないように見える」。そして、次のことがまだ保たれているかどうかを見てくれ、とクリトンに頼みます。
「最も大切にすべきは、ただ生きることではなく、善く生きることである」。クリトンは、「ああ、保たれている」と答えます。続けて、「善く生きることと、美しく生きることと、正しく生きることとは同じである」ということも確かめます。ソクラテスは、新しい主張を持ち込んでいるわけではありません。すでに二人で認めてきたことが、死の危険が目の前に来た今も、変わらず認められているかどうかを、一つずつ確かめているのです。
先ほどの「あのもの」の話と合わせると、筋がつながります。そのものを損なってまで、ただ生きていることが、最も大切なこととはいえません。これは、訳文の言葉を並べた私たちの読みですが、「ただ生きること」と「善く生きること」を分ける言い方は、この合意の延長にあるように思われます。
検討することは、一つだけになる
これで、何を検討すればよいのかが絞られます。ソクラテスは言います。アテナイの人々が許さないのに、私がここから出ていこうと試みるのは、正しいのか、正しくないのか。「正しいと思われるなら試みよう。そうでなければやめよう。」金を使うことも、世間の評判も、子どもの養育も、クリトンが挙げたこれらは、「簡単に人を殺し、できるものなら、何の分別もなく生き返らせようとするような、あの多くの人々の考えること」ではないかと、ソクラテスは恐れます。出ていくかどうかは、生き延びられるかどうかではなく、正しいかどうかで決まる。そう立て直されたのです。
では、その正しさは、どこから確かめるのでしょうか。次の記事では、ソクラテスが、不正を受けた場合でさえ「不正をし返してはならない」と言う場面を見ていきます。