ある行いが正しいと認められているとします。その行いは、正しいから認められているのでしょうか。それとも、認められているから正しいのでしょうか。どちらでも同じことのように思えますが、この二つは、別の主張です。プラトン『エウテュプロン』のソクラテスは、神々と敬虔について、この区別を持ち出します。

修正された答え

エウテュプロンは、敬虔なものとは神々に愛されるものだと答えていました。ところが、神々の間にも争いがあり、同じものを愛する神と憎む神がいるはずだ、とソクラテスは指摘します。それでは、同じものが敬虔でもあり不敬虔でもあることになってしまいます。ここでエウテュプロンは、不正に人を殺した者が罰を受けるべきではないと言って神々が互いに意見を異にすることはない、と反論します。ソクラテスは、争われるのは一つ一つの行いが正しいかどうかだと返し、そのうえで、すべての神々が憎むものは不敬虔であり、愛するものは敬虔であり、ある神々が愛しある神々が憎むものはそのどちらでもないか、あるいは両方である、という点を定めたいのかと尋ねます。エウテュプロンは、何が妨げるというのだ、と受けて、答えを言い直します。「私なら、すべての神々が愛するものが敬虔であり、その反対に、すべての神々が憎むものが不敬虔である、と言うだろう。」

ソクラテスは、これをすぐには受け入れません。うまく言われているかどうかを、調べてみようと言います。エウテュプロンは、調べなければならないと認めつつ、自分は今のところうまく言われていると思う、と述べます。そこでソクラテスが出すのが、次の問いです。「敬虔なものは、敬虔であるから神々に愛されるのか、それとも愛されるから敬虔なのか。」エウテュプロンは、何を言っているのかわからない、と返します。

運ばれるもの、導かれるもの、見られるもの

ソクラテスは、身近な例から入ります。運ばれるものと運ぶもの、導かれるものと導くもの、見られるものと見るものがあり、これらは互いに別のものです。そのうえで、運ばれるものは、運ばれているから運ばれるものなのか、それとも何かほかの理由でか、と尋ねます。エウテュプロンは、運ばれているためだ、と答えます。導かれるものも、見られるものも、同じです。

ソクラテスは、これを一般の形にまとめます。「何かが生じる、あるいは何かをこうむるとき、生じつつあるものだから生じるのではなく、生じるから生じつつあるものなのだ。」言い換えれば、運ばれる、見られるという作用をこうむるから、運ばれるもの、見られるものになる、ということです。エウテュプロンは、これに同意します。

愛されるものに当てはめる

次に、この形を「愛される」に当てはめます。「愛されるものだから、愛する者たちに愛されるのではなく、愛されるから愛されるものなのだ。」愛されるものは、愛されるという作用をこうむるから、愛されるものになるのです。

それでは、敬虔なものはどうか。ソクラテスは、それが愛されるのは、敬虔なものだからか、それともほかの理由でか、と尋ねます。エウテュプロンは、敬虔なものだからだ、と答えます。つまり、「敬虔なものだから愛されるのであって、愛されるから敬虔なのではないのだね。」ということになります。

二つは別のもの

ところが、神々に愛されるものは、神々に愛されるから、まさにその愛されるということによって、神々に愛されるものになります。敬虔なものは、敬虔だから愛される。神々に愛されるものは、愛されるから、神々に愛されるものになる。二つの向きは、逆になっています。ソクラテスはこう述べます。「この二つは互いに別のものだ、エウテュプロンよ。」一方は、愛されるから、愛されるような性質のものになり、もう一方は、愛されるような性質のものだから、愛される。この違いが、理由として挙げられています。

そのうえで彼は、エウテュプロンに言います。敬虔なものとは何かと問われて、その本質を明らかにしたくないらしい、と。「そのものについて、あるこうむる性質、つまり、敬虔なものがすべての神々に愛されるということ、を言っているだけだ。」それが何であるのかは、まだ言っていない、と続けます。神々に愛されることは、敬虔なものに起こることではあっても、敬虔であることの中身を言い当ててはいない、という指摘です。

この問いは、のちにエウテュプロンのジレンマと呼ばれ、倫理学や宗教哲学で長く論じられてきた、と一般に言われています。ソクラテス自身は、ここで議論を閉じず、敬虔なものとは何であり、不敬虔なものとは何かを、はじめからもう一度言うよう求めます。次の記事では、敬虔が神々への奉仕と呼ばれるとき、神々は人間の贈り物から何の益を得るのか、という問いを見ます。