身内が重い罪を犯したとき、それを公の場で訴え出ることは、正しいことでしょうか。それとも、身内であればこそ、かばうのが人の道でしょうか。プラトン『エウテュプロン』の冒頭近くには、まさにこの場面に立つ人物が登場します。エウテュプロンという人物で、訴える相手は、自分の父です。
訴える相手は、年老いた父
王の柱廊の前で出会ったソクラテスは、メレトスから不敬で告発されたことを話したあと、エウテュプロンに尋ねます。君の訴えとはどういうものか、君が被告なのか、それとも原告なのか。エウテュプロンは原告だと答え、その相手を訴えると、またしても自分は気が狂っていると思われるような人物だ、と言います。空を飛ぶ者でも訴えているのか、とソクラテスが尋ねると、飛ぶどころではない、ひどく年老いた人だ、と返します。それは自分の父であり、嫌疑は殺人です。
これを聞いたソクラテスは、「ふつうの人がこれを行えるとは私は思わない。」と述べます。すでに知恵の相当な高みまで進んだ人でなければ行えないだろう、というのです。エウテュプロンも、ずっと先まで進んだ人でなければ、と応じます。
他人か身内かは、問題ではない
続いてソクラテスは、父に殺された人は身内の誰かなのだろう、と考えます。他人のためなら、君が父を殺人で訴えるはずはないのだから、と。エウテュプロンは、この考えを退けます。「死んだ者が他人か身内かで違いがあると君は思うのか。」
彼の言い分では、見るべき点は一つだけです。「見るべきことはただ一つ、殺した者が正しく殺したのかどうかだ。」正しく殺したのなら放っておき、そうでないなら訴え出る。それは、「殺した者が君と同じ炉を囲み、同じ食卓につく者であってもだ。」と彼は言います。そうと知りながらその人と交わり、訴え出て自分とその人を清めないなら、穢れは同じだけ生じるからです。訳文の注記によれば、殺人を犯した者は穢れを帯びると考えられ、その者と交わる者にも穢れが及ぶとされました。エウテュプロンにとって、判断の拠り所は血縁ではなく、行いが正しかったかどうかにあります。
この場面の前半、エウテュプロンが父を訴える事情を語るところまでを、実際の訳文で読んでみたい方へ。
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何があったのか
では、実際には何があったのでしょうか。エウテュプロンの語るところでは、死んだのは彼の雇い人の一人で、ナクソスで農耕をしていたころ、そこで日雇いの仕事をしていた男です。この男は酒に酔い、家の召使いの一人に腹を立てて、その召使いを刺し殺しました。そこで父は、男の手足を縛って溝に投げ込み、何をすべきかを解釈者に尋ねさせるために、使いを出します。縛られた男は、人殺しなのだから死んでも何ほどのことでもないと考えられて、顧みられませんでした。使いが戻る前に、飢えと寒さと縛めのために死んでしまった、というのです。
身内の非難と、エウテュプロンの返答
父も、ほかの身内の者たちも、これに腹を立てています。彼らの言い分は二つです。父は殺したのではない。殺したのだとしても、死んだ者は人殺しなのだから、気にかける必要はない。そのうえで彼らは、「息子が父を殺人で訴え出るのは不敬虔だと言うのだ。」と、エウテュプロンは伝えます。これに対する彼の返答は、「彼らは神的なことが、敬虔と不敬虔について、どうなっているのかを、よくわかっていないのだ。」というものでした。
ここでは、身内が、息子が父を訴えることを不敬虔だと言い、エウテュプロンが、その身内こそ、敬虔と不敬虔についてよくわかっていないと反論しています。
ソクラテスは、ここで話を終わらせません。君は神的なことがどうなっているか、また敬虔なことと不敬虔なことについて、これほど正確に知っていると思っているのか、と問います。さらに、事が君の言うとおりに行われたのだとして、「かえって君自身が不敬虔な行いをしてしまうのではないかと、恐れないのか。」と重ねます。エウテュプロンの答えは、そうでなければ自分に何の価値があるだろうか、というものでした。もしこうしたことを正確に知らないなら、大衆の誰とも変わらないことになってしまう、と続けます。
こうして、父を訴えることの是非は、敬虔とは何かを本当に知っているのか、という問いに移っていきます。このあと、エウテュプロンは、敬虔なものとは神々に愛されるものだと答えます。次の記事では、その答えにソクラテスが投げかけた、敬虔だから愛されるのか、愛されるから敬虔なのか、という問いを見ます。