贈り物をするとき、受け取る側にも、何かの益があると考えるのがふつうです。では、神々に贈り物をする場合は、どうでしょうか。プラトン『エウテュプロン』では、敬虔が神々への奉仕として語られていく途中で、この問いが現れます。

仕える術と、供犠と祈り

その少し前、敬虔は神々の世話であり、奴隷が主人に仕えるような世話だ、とエウテュプロンは言っていました。ソクラテスは、これを神々に対するある種の仕える術と受け止め、他の仕える術と並べて尋ねます。医者に仕える術は健康のために、船大工に仕える術は船を造るために、家大工に仕える術は家を造るためにあります。では、神々に仕える術は、どんな仕事を成し遂げるためのものなのか、と問います。

エウテュプロンは、多くの美しい仕事だ、と答えます。ソクラテスは、将軍たちも多くの美しい仕事をするが、その要点は戦争における勝利だと言えるし、農夫たちの仕事の要点は、大地から食物を得ることだ、と返します。では、神々が成し遂げる仕事の要点は何か。エウテュプロンは、正確に学ぶのは骨の折れる仕事だが、祈りと供犠によって神々に喜ばれることを言い行うすべを心得ている者がいれば、それが敬虔なことだ、と述べます。

ソクラテスは、もっと短く言えたはずだと指摘したうえで、敬虔を、供犠と祈りについての、ある種の知識ではないのか、と受け止め直します。エウテュプロンは、そうだと認めます。ソクラテスは、言葉を整理します。「供犠とは神々に贈り物をすることで、祈りとは神々に求めることだね。」エウテュプロンは、まったくそうだと答えます。すると、敬虔は、神々に対して求め、与えることについての知識になります。

正しく求め、正しく与える

ソクラテスは、さらに進めます。正しく求めるとは、私たちが神々から必要としているものを、神々に求めること。正しく与えるとは、神々がたまたま私たちから必要としているものを、お返しに贈ることだ、と。その理由として、「何も必要としていないものを人に与えて贈り物をするのは、技ある行いとは言えないだろうから。」と述べます。

こうして、敬虔は、神々と人間との間で互いのものを取り交わす、ある種の商いの術だということになります。エウテュプロンは、「商いの術だ、もしそう呼ぶほうが君の気に入るのなら。」と応じます。ソクラテスの返事は、「気に入るかどうかは問題ではない、それが真実でないのなら。」でした。呼び名の好みではなく、それが真実かどうかを問うているのです。

神々が受け取るもの

そこでソクラテスは、一つの問いを立てます。神々が人間に与えるものは、誰にでも明らかです。私たちにとって善いものは、神々が与えたのでないものは何一つない、と彼は言います。では、反対の側はどうか。「彼らが私たちから受け取るものから、何の益を得るのか。」それとも、私たちはこの取引で神々に対してそれほど優位に立っていて、あらゆる善いものを受け取るのに、神々は何も受け取らないのか、と。

エウテュプロンは、益を得ていると答えるのではなく、神々が私たちから受け取るものから益を得ていると、君は思うのか、と問い返します。先に、敬虔な行いが神々の誰かをより善くする、とは認めない、と答えていた彼です。ソクラテスは、重ねて尋ねます。それなら、私たちが神々に贈るこれらの贈り物は、いったい何なのか。エウテュプロンは答えます。「誉れと、栄誉の捧げ物と、そして私が先ほど言ったように、喜びだ。」

喜ばれるものは、益になるものか

ソクラテスは、この答えを受けて確かめます。「敬虔なものは、喜ばれるものであって、益になるものでも、神々に愛されるものでもないのか。」ここは筆者の読みですが、ソクラテスは、贈り物が喜びであるなら、敬虔なものは喜ばれるものにとどまり、益になるものでも神々に愛されるものでもないのか、と確かめています。

この確かめに、エウテュプロンがどう答え、ソクラテスがどう受けるかは、翻訳HTMLの15cから16aで読むことができます。