美しいものとは別に「美そのもの」がある。正しい行いとは別に「正義そのもの」がある――プラトンのイデアの考えは、よく知られています。では、イデアはいったいどこまであるのでしょうか。美や正義にあるのなら、人間にも、火や水にもあるのか。もっと言えば、髪の毛や泥にもあるのか。この、少し意地の悪い問いから、プラトンの対話篇のなかでもっとも難解とされる『パルメニデス』の議論は動き出します。

三重の伝聞で語られる会見

この対話篇は、少し変わった形で始まります。語り手のケパロスが、アンティポンという人物から、ずっと昔の会見の話を聞く。アンティポンはその話を、会見の場に居合わせたピュトドロスから何度も聞いて覚えていた。つまり読者は、三重の伝聞を通して、その場面に立ち会うことになります。

会見の主役は三人です。エレアから来た老哲学者パルメニデス、およそ六十五歳。その弟子ゼノン、四十歳近く。そして、まだごく若いソクラテス。ゼノンは自分の書物を朗読し、もしあるものが多であるなら、それらは似ていると同時に似ていないことになるが、それは不可能だ、と論じていました。

ソクラテスの反論――イデアがあれば驚くにあたらない

これに対して若いソクラテスは、自分の考えを持ち出します。類似性の形相がそれ自体としてあり、それとは反対の非類似性の形相もある。私たちは、その両方を分け持つことがある。そうであれば、同じものが似ていると同時に似ていないとしても、何の不思議もない。ソクラテス自身も、右と左、前と後ろが異なるという点では多であり、七人のうちの一人の人間という点では一である。驚くべきなのは、形相そのものが反対の性格を帯びていると示されたときだ、というのです。

パルメニデスは、この意気込みに感嘆します。そのうえで、一つずつ確かめていきます。

どこまでイデアがあるのか

まず、類似性や一と多については、ソクラテスは形相があると答えます。続けてパルメニデスは尋ねます。

「では、次のようなものについてもそうなのか。たとえば、正しいものの、それ自体としての形相、また美しいものの形相、善いものの形相、さらにその類のすべてのものの形相があるのか。」(130b)

ソクラテスは「ある」と答えます。ところが、人間や火や水の形相はどうかと問われると、答えが揺らぎます。それらについては、先のものと同じように言うべきか、何度も困惑したことがある、と言うのです。

パルメニデスはさらに踏み込みます。髪の毛や泥や垢のような、きわめて取るに足らないものにも、形相はあるのか。ソクラテスの答えはこうでした。

「決してそうではない。これらは、まさに私たちが目にしているもの、それがそのままあるのだと思う。これらに何か形相があると考えるのは、あまりにも奇妙なことになりはしないか。」(130d)

とはいえ、すべてのものについて同じことが言えるのではないか、と心を乱されたこともあった。しかし、その考えに踏みとどまると、たわごとの淵に落ちて身を滅ぼすのではないかと恐れて、逃げ去ってしまう。ソクラテスは、そう正直に打ち明けます。

「哲学はまだ君をつかんではいない」

このためらいに、パルメニデスはこう応じます。

「ソクラテスよ、それは君がまだ若いからだ。哲学はまだ君をしっかりとつかんではいない。だが私の考えでは、いずれ哲学は君をつかむだろう。そのときには、君はこれらのどれひとつとして軽んじることはなくなるだろう。」(130e)

今のところは、年齢のゆえに、まだ人々の思わくを気にかけているのだ、とパルメニデスは続けます。美や正義には形相を認めるのに、泥や垢には認めない。その線引きは、理屈ではなく、立派なものにだけ高い身分を与えたいという気持ちから来ているのではないか。パルメニデスの言葉は、そう問いかけているようにも読めます。

こうして、イデアが「どこまで」あるのかという問いは、答えが出ないまま残されます。けれども、パルメニデスの吟味はここからが本番です。次の記事では、イデアが一つでありながら、どうやって多くの物に行き渡るのか――昼と帆布のたとえをめぐるやり取りを読んでいきます。