美しい花、美しい人、美しい音楽。美しいものは数えきれないほどあります。ところが、プラトンの考えでは、美のイデア、つまり「美そのもの」は一つしかありません。では、その一つのイデアは、どうやって多くの美しいものに行き渡っているのでしょうか。『パルメニデス』のパルメニデスが、若いソクラテスに突きつけた二つ目の問いは、これでした。

全体を分け持つのか、部分を分け持つのか

前の記事で見たように、ソクラテスは、ここにある物は形相を分け持つことによって、その名を受けると考えていました。類似性を分け持ったものは似たものとなり、大きさを分け持ったものは大きなものとなる。パルメニデスはそこで、分け持ち方を二つに絞ります。分け持つものはそれぞれ、形相の全体を分け持つのか、それとも部分を分け持つのか。

全体だとすると、困ったことになります。一つの同じものが、多くの別々にあるもののうちに、同時に全体としてあることになる。そうなれば、それ自身がそれ自身から離れてあることになってしまいます。

ソクラテスの「昼」

ソクラテスは、ここで一つのたとえを出します。

「いや、形相の一つ一つが、たとえば昼のようなものであれば、そうはならないだろう。昼は一つの同じものでありながら、同時に多くの場所にあり、しかもそれ自身から離れてあるわけでは少しもない。」(131b)

たとえばアテナイにもエレアにも、同じ一つの昼が来ている、というように。なかなか見事な答えです。

パルメニデスの「帆布」

しかしパルメニデスは、このたとえを、すぐに別のたとえに置き換えてしまいます。

「ソクラテスよ、君はなんとも手際よく、一つの同じものを同時に多くの場所に置くものだ。それはちょうど、帆布で大勢の人々を覆っておいて、一つのものが全体として多くの人々の上にあると言うようなものだ。」(131b)

では、その帆布は、全体としてそれぞれの人の上にあるのか。それとも、帆布のある部分がある人の上に、別の部分が別の人の上にあるのか。ソクラテスは「部分だ」と答えるほかありません。そうだとすれば、形相そのものは分割できるものとなり、形相を分有するものは、その部分を分有することになります。

部分を分け持つと、何が起こるか

一つの形相が本当に分割されても、なお一つであるとは言えない。ソクラテスもそれは認めます。パルメニデスは、部分で分け持つとどうなるかを、三つの例で示します。

大きさそのものを分割すると、大きなものは、大きさそのものよりも小さい部分によって大きいことになる。等しさの小さな部分を受け取ったものは、等しさそのものより小さい部分によって何かと等しくなる。小ささの部分をもつとすると、小ささそのものは、その部分より大きいことになり、取り去られた部分を受け取ったものは、前より大きくなるのではなく、前より小さくなる。どれも筋が通りません。

全体でもだめ、部分でもだめ。パルメニデスの問いに、ソクラテスはこう答えるしかありませんでした。

「ゼウスに誓って、そのようなことをはっきりと定めるのは、私にはまったく容易なことだとは思われない。」(131e)

物がイデアに与るとは、いったいどういうことなのか。のちにアリストテレスが『形而上学』で、「分有」とは名を変えただけで、それが何であるかの探求は怠られたと批判する点に、プラトン自身がここで先回りして光を当てているとも言えます。次の記事では、パルメニデスがさらに踏み込み、イデアが限りなく増えていってしまう、という議論を読んでいきます。