イデアの考えには、もともと単純な出発点があります。たくさんの大きなものを見渡すと、どれにも共通する何か一つのものがあるように思われる。それが「大きさそのもの」、大きさのイデアだ、というものです。ところが『パルメニデス』のパルメニデスは、まさにこの出発点から、イデアが限りなく増えていってしまうことを示してみせます。

見渡すたびに、もう一つ現れる

パルメニデスは、ソクラテスがなぜ形相を一つだと考えるのかを、まず言い当てます。多くのものが大きいと思われるとき、それらすべてを見渡すと、何か一つの同じイデアがあるように思われる。そこから、大きいということは一つであると考えるのだろう、と。ソクラテスは、その通りだと答えます。

では、その大きいということそのものと、他の大きなものとを、同じように魂によって見渡したらどうなるか。今度はまた、何か一つの大きいものが現れて、それによってこれらすべてが大きく見えるのではないか。パルメニデスの結論はこうです。

「こうして、形相の一つ一つは、君にとってもはや一つではなく、数において限りのないものになるだろう。」(132b)

大きなものたちと大きさそのものを束ねる二つ目の大きさ。それも含めて束ねる三つ目の大きさ……。この議論は、のちにアリストテレスが、人間の場合に置き換えて「第三の人間」と呼び、プラトン批判に用いたことで知られています。

「イデアは思考である」という逃げ道

ソクラテスは、一つの逃げ道を探します。形相の一つ一つは、これらについての思考であって、魂のうち以外のどこにも生じないのではないか。そうであれば、形相は一つであり続けるはずだ、と。

しかしパルメニデスは、すぐに問い返します。思考は、何ものかについての思考である。それは、すべてのものの上にある一つのもの、一つのイデアについての思考ではないか。それに、物が形相を分有するなら、物はそれぞれ思考から成っていて、すべてが思考しているか、思考でありながら思考していないか、どちらかになってしまう。ソクラテスも、それは筋が通らないと認めます。

「手本と似像」という第二の逃げ道

そこでソクラテスは、もう一つの考えを出します。

「これらの形相は、いわば手本として、自然のうちに立っている。他のものはそれらに似ており、その似像である。」(132d)

分有とは、形相に似せられること以外の何ものでもない――。見事な言い換えですが、パルメニデスはここでも同じ仕掛けを使います。何かが形相に似ているなら、形相もまたそれに似ている。似ているもの同士は、一つの同じものを分有しなければならず、そのものこそ形相である。そうすると、形相のほかに常に別の形相が現れ、新しい形相が生じることは決してやまない。

「したがって、他のものは類似によって形相を分け持つのではない。それらが分け持つ別の仕方を探さなければならない。」(133a)

増殖は、どこで止まるのか

ここで大事なのは、パルメニデスが、イデアが増えること自体を面白がっているのではない、という点です。問われているのは、物とイデアをつなぐ関係の中身です。見渡す、似る、といった関係を持ち込むたびに、その関係を支える新しいイデアが必要になる。関係が説明されないかぎり、増殖は止まりません。

ソクラテスは二つの逃げ道を試し、どちらも塞がれました。けれども、パルメニデスによれば、まだ最大の難問は出てきていません。次の記事では、イデアが私たちから離れてそれ自体としてあるなら、私たちにはイデアが知られず、神もまた私たちを知らないことになる、という議論を読んでいきます。