神は、私たちのことをすべて知っている。多くの宗教が、そう考えてきました。ところが、プラトンの『パルメニデス』には、イデアをそれ自体としてあるものと認めるなら、神は私たちのことを知らないことになる、という驚くべき議論が出てきます。パルメニデスが「最大の難問」と呼ぶ箇所です。

イデアは、私たちのうちにはない

議論の出発点は、ソクラテス自身が認めていることです。それぞれのものについて、それ自体としての存在を立てる人なら、まず、それらのどれひとつとして私たちのうちにはない、ということに同意するだろう。ソクラテスも、私たちのうちにあるなら、どうしてなおそれ自体としてあることができようか、と答えます。

そうすると、イデア同士はイデア同士の関係においてあり、私たちのもとにある物は、それら同士の関係においてある、ということになります。パルメニデスは、主人と奴隷の例で説明します。私たちのうちの誰かが主人であるとき、その人は奴隷そのものの主人ではなく、人間である奴隷の主人である。他方、主人であることそのものは、奴隷であることそのものに対してある。二つの世界は、それぞれの内側で関係を結び、互いに働きかけることがない、というのです。

私たちには、イデアが知られない

同じことが、知識にも当てはまります。知識そのものは、真理そのものについての知識であり、私たちのもとにある知識は、私たちのもとにある真理についての知識である。ところが私たちは、知識そのものを分有していない。そうだとすれば――

「そうすると、美であるところの美そのものも、善そのものも、そして私たちがイデアとしてそれ自体としてあると想定しているすべてのものも、私たちにとっては知られえないものだ。」(134b)

さらに恐ろしいこと――神は私たちを知らない

パルメニデスは、ここで「さらに恐ろしい」ことを持ち出します。もし知識そのものの類というものがあるなら、それは私たちのもとにある知識よりもはるかに厳密なものだろう。そして、もっとも厳密な知識をもつのは神をおいてほかにない。

ところが、イデアの側のものは、私たちのもとにあるものに対して働きをもたない。そうすると、神々のもとにある主人であることは私たちを支配しないし、神々のもとにある知識は私たちを知ることもない。神々は、神々である以上、私たちの主人でもなければ、人間の事柄を知ることもない。ソクラテスは、思わずこう言います。

「しかし、神から知ることを奪うことになるなら、その議論はあまりにも驚くべきものになりはしないか。」(134e)

それでも、イデアは捨てられない

ここまで来ると、イデアなど捨ててしまえばよいと思えてきます。ところがパルメニデスは、そうは言いません。形相をそれ自体として区別するなら、これほど多くの難点を抱え込む。しかし逆に、その難点に目を向けて、形相を認めないとしたらどうなるか。

「あるもののそれぞれについて、常に同じものであるイデアがあることを認めないのだから。そしてそのようにして、その人は問答する力をまったく損なってしまうだろう。」(135b)

その人は、思考をどこへ向ければよいかさえ分からなくなる、とパルメニデスは言います。イデアを立てれば難問に囲まれ、捨てれば考えることそのものが成り立たない。この板挟みの前で、パルメニデスが若いソクラテスに勧めるのは、イデアを区別する前に積むべき「訓練」でした。次の記事では、その訓練として始まる後半の議論の入口――「一がある」と「一が一である」の違いを読んでいきます。