「一がある」と「一が一である」。言葉の上では、ほとんど同じに見えます。ところが『パルメニデス』の後半では、この二つの違いが、議論全体の向きを変える転回点になります。そこに至るまでの道筋を、順にたどってみましょう。

あると仮定し、ないとも仮定する

イデアをめぐる難問の前で、パルメニデスは若いソクラテスに、ある訓練を勧めます。それは、かつてゼノンが用いたやり方でした。ただし、それを目に見えるものではなく、言論によって捉えられるものについて行う。しかも――

「それぞれのものについて、それがあると仮定して、その仮定から帰結することを考察するだけでなく、同じそのものがないと仮定してもみなければならない。」(135e)

ソクラテスとゼノンにせがまれ、パルメニデスは自らやってみせることを引き受けます。年老いた競走馬にわが身をなぞらえた詩人イビュコスのように、この年で、これほど大きな言論の海をどうやって泳ぎ渡るのかと恐れながら。選んだ主題は、自分自身の仮定、「一」でした。答え手には、その場でいちばん若いアリストテレス(のちの哲学者とは別人)が立ちます。

最初の考察――一は、一でさえない

最初の考察は、一を、ただ一であるものとして考えることから始まります。一が一であるなら、一は多ではない。そうすると、一は部分をもたず、全体でもない。始まりも終わりもなく、形もなく、どこにもない。運動もせず、静止もしない。同じでも異なるのでもなく、似ても似ていなくもない。時間のうちにもない。

あった、ある、あるだろう。何かが存在を分有するのは、このどれかの仕方による以外にない。時間を分有しない一は、存在をまったく分有しない。そして、ついにこういう結論に行き着きます。

「むしろ、どうやら、一は一でもなく、あるのでもないようだ。」(141e)

名づけられることも、語られることも、知られることもない一。答え手のアリストテレスも、一についてこのような事態がありうるとは思われない、と答えます。

立て直しの鍵――「ある」は「一」とは別のことを言う

そこでパルメニデスは、仮定に初めから立ち返ります。一があるなら、一は存在を分有する。そして、一の存在は、一と同じものではない。

「そして、一があると言うのは、一が一であると言うのと同じことになるだろう。しかし今の仮定は、一が一であるなら何が帰結しなければならないか、というものではなく、一があるならというものだ。」(142c)

もし存在と一が同じなら、「一がある」は「一が一である」の言い換えにすぎない。しかし仮定は「一がある」なのだから、「ある」は、一とは別の何かを意味している。ここで議論の向きが変わります。

あるところの一は、限りなく二になる

一とあることとが別のものなら、「あるところの一」は、一とあることという二つの部分をもつ全体です。しかも、その部分のそれぞれも、一はあることを欠かず、あることは一を欠かないのだから、また一とあることをもつ。

「したがって、一は常に二になっていき、決して一ではないのでなければならない。」(142e)

最初の考察では、何ももたない一が、一でさえないものになりました。今度の考察では、存在を分有する一が、部分をもち、数において限りのないものになっていきます。どちらの道も、私たちの常識からはかけ離れた場所に出ます。けれどもこの対比のなかで、一であることとあることとの関係が、ここで初めてこれほど徹底して問われているのです。次の記事では、この考察の途中に現れる奇妙な概念、「瞬間」を読んでいきます。