信号が青に変わり、止まっていた車が動き出す。ごくありふれた光景です。では、車が「止まっている」から「動いている」へと変わったのは、いつだったのでしょうか。止まっているあいだは、まだ変わっていない。動いているあいだは、もう変わり終えている。すると、変わったそのときは、どこにあるのか。プラトンの『パルメニデス』には、この問いに正面から取り組んだ、古代でも珍しい議論があります。
あるときは存在を分有し、あるときは分有しない
議論の舞台は、対話篇の後半です。パルメニデスは、一があるとすれば何が帰結するかを考察し、一が、一であり多であり、時間を分有するものであることを示してきました。そこで三番目の考察として、次の問題が立てられます。
そのような一は、あるときには存在を分有し、あるときには分有しない。分有しているときに同時に分有しないことはできないので、ある時間には分有し、別の時間には分有しない。存在を分け取ることが生じることであり、存在から離れることが滅びることである。一は、生じ、また滅びる。
ここで問われるのが、変化そのものです。運動しているものが静止し、静止しているものが運動へと変化するとき、それはいつ変化するのか。
どの時間にも、変化の居場所がない
パルメニデスは、逃げ道を一つずつ塞いでいきます。先に静止していたものが後に運動するということを、変化することなしに被ることはできない。しかし、何かが同時に運動もせず静止もしていないような時間は、何ひとつない。静止しているあいだにも、運動しているあいだにも変化しない。変化するものは、変化することなしに変化するのではない。そこで、パルメニデスはこう問います。
「では、変化するそのときに、変化するものがそのうちにあるような、この奇妙なものがあるのだろうか。――それはどのようなものか。――瞬間だ。」(156d)
「瞬間」という奇妙な本性
瞬間とは、そこから両方へと変化していくもの、といったことを意味しているように思われる、とパルメニデスは言います。静止していることからは、まだ静止しているあいだは変化しない。運動からは、まだ運動しているあいだは変化しない。
「むしろ、この瞬間という奇妙な本性が、運動と静止のあいだに座を占めていて、どんな時間のうちにもない。」(156d)
この瞬間へと、またこの瞬間から、運動しているものは静止へ、静止しているものは運動へと変化する。そして変化するそのときには、どんな時間のうちにもなく、運動していることも静止していることもない。車が動き出すまさにその点は、止まっている時間にも、動いている時間にも属さない、というわけです。
あることとあらぬこと、一と多のあいだにも
パルメニデスは、この考えをほかの変化にも広げます。あることから滅びることへ、あらぬことから生じることへと変化するとき、一は、あるのでもあらぬのでもなく、生じるのでも滅びるのでもない。一から多へ、多から一へと進むときには、一でも多でもない。似ているものから似ていないものへ、小さいものから大きいものへと進むときも同じです。
原語の「エクサイプネース」は、もともと「突然に」を意味する副詞です。それを名詞にして、時間の流れのなかに収まらない境目を名指したところに、この議論の独創があります。時間を点の連なりとして考えるとき、「変わるのはいつか」という問いは今も消えていません。およそ二千四百年前の対話篇が、その問いにこれほど鋭い形を与えていたことは、驚くに値します。次の記事では、一があらぬとしたら物はどう見えるのか、という最後の考察を読んでいきます。