机は一つの机であり、りんごは一つのりんごである。私たちは、物が「一つ」であることを、ほとんど疑いません。けれども、もし「一」というものがなかったら、物はどう見えるのでしょうか。『パルメニデス』の終盤、パルメニデスはこの問いに、夢と絵のたとえを用いて答えます。

一がなければ、互いに他のものであるほかない

後半の考察は、一があるなら、一があらぬなら、という二つの仮定から、一と、一以外の他のものにとって何が帰結するかをたどってきました。ここで扱われるのは、一があらぬなら、他のものは何を被るか、という問いです。

他のものは、他のものでなければならない。他のものであるためには、それが他である相手が要る。しかし一はあらぬのだから、他のものが一と他であることはない。そうすると、他のものは、互いに他のものであるほかない。しかも一つとしてではなく、多数のまとまりとして。パルメニデスは、このまとまりを「塊」と呼びます。

夢のなかのように

その塊のそれぞれは、数において限りのないものです。もっとも小さいと思われるものを取り上げても、それは一つにとどまりません。パルメニデスは、「ちょうど眠りのなかの夢のように、一つだと思われていたものが、突然、多くのものとして現れ、もっとも小さいものが、そこから細かく分かれたものに比べて、きわめて大きなものとして現れるのだ。」(164d)と言います。

多くの塊があり、そのそれぞれは一つであるように現れるが、実際には一つではない。数があるように思われ、偶数や奇数があるように現れても、それは真実ではない。思考によって一つを捉えようとするたびに、始まりの前には別の始まりが、終わりの後には別の終わりが現れる。一なしに捉えられるのは、常に塊だからです。原典では、このほかにも、塊が大きいものから小さいものへ移り変わって見える途中に「等しさの見かけ」が現れること、塊がほかの塊に対しては限界をもちながら、それ自身に対しては始まりも限界も中間ももたないことが、短い問答で次々に示されていきます(165a〜b)。

そうすると、このような塊は、遠くからぼんやり見る人には一つのものとして、近くから鋭く思考する人には、そのそれぞれが数において限りのないものとして現れる。こうして他のものは、限りがなく、また限界をもち、一でもあり多でもあるように現れます(165b〜c)。

陰影で描かれた絵のように

パルメニデスは、「たとえば、陰影で描かれた絵のように、離れて立つ人には、すべてが一つのものとして現れ、同じ性格を帯びていて似ているように現れる。」(165c)と、もう一つのたとえを重ねます。

しかし近寄る人には、多くの、異なるものとして、互いに似ていないものとして現れる。こうして他のものは、似ており、また似ていないようにも現れます。さらに、同じでも異なるのでもあり、接してもいれば離れてもおり、運動もすれば静止もし、生じもすれば滅びもし、そのどちらでもないようにも現れる。一があらぬのに他のものがあるなら、物はこのように、あらゆる反対の性格を帯びて現れるのです。

「一」は、物を一つにするもの

このたとえを裏返すと、一の働きが見えてきます。一がなくても、物は遠くからは一つに見えます。けれども、実際に一つであることは、一によってはじめて成り立つ。対話篇のこれより前の考察では、一以外の他のものは、一を分有することによって、一つの全体とその部分とになり、部分どうし、また部分と全体とが互いに限界をもつ、とされていました。二つの考察を並べてみると、一を欠いた物は、一つに見えても一つではない塊として現れるにすぎない、ということになります。古典書房の「知るための本」では、この読みを手がかりに、『パルメニデス』に沿った物の定義を試みています。

この対話篇が、どのような言葉で結ばれるのかは、翻訳HTMLの本文で読むことができます。