分別を失うことは、そのまま悪いことなのでしょうか。何かに夢中になった人を見て、正気を失っていると言うとき、その言葉には、たいてい非難の響きがあります。『パイドロス』のソクラテスは、取り消しの歌のはじめに、この前提そのものを問い直します。

前提となっていたもの

ソクラテスは、さきの二つの話がエロスに対する過ちだったと悟り、身を清めるために取り消しの歌を捧げると決めたところでした。そして、美しい少年に向かって、次のように言います。これから語る話は、パイドロスの話ではなく、ヒメラの人ステシコロスの話である、と。さきの二つの話について、ソクラテスは、こう言います。愛慕者がそばにいるのに、一方は狂い、他方は節度があるという理由で、愛慕しない者のほうにこそ応じるべきだと主張する話は、真実の話ではない、と。そして続けます。「もし狂気が悪であるということが単純であるなら、その話は立派に語られたことになるだろう」。ここは筆者の読みですが、さきの二つの話は、愛慕者が狂っていることを、愛慕しない者に応じる理由にしており、その背後には、狂気は悪いという前提があったようです。

ところが、ソクラテスは、その前提を認めません。「しかし実際には、最大の善いものが、狂気を通して私たちに生じる」。ただし、それは神からの賜物として与えられた狂気だ、と限定を付けます。

狂気が成し遂げたこと

最初に挙げられるのは、予言です。「デルポイの予言の巫女も、ドドネの巫女たちも、狂っているときには、私的にも公的にもギリシアに多くの立派なことを成し遂げたが、節度ある状態では僅かしか、あるいは何も成し遂げなかった」。シビュラのような人々まで数え上げれば、だれにも明らかなことを長々と語ることになる、として、ソクラテスは先へ進みます。

次に、言葉の成り立ちが証言として挙げられます。「昔の人々で名を定めた者たちは、狂気を恥ずべきこととも、とがめとも考えなかった」。もし狂気が恥ずべきものなら、未来を判じる最も美しい術に、狂気の術という名を結びつけはしなかっただろう、というのです。思慮ある人々が、鳥やその他の徴によって未来を探る営みについても、昔の人々の名づけと今の人々の呼び名には違いがあると言います。「予言の術が鳥占いの術より、名においても働きにおいても、より完全でより尊いのと同じ程度に、昔の人々は、神から来る狂気が、人間から生じる節制よりも美しいと証言している」。この議論のうち、ギリシア語の字の違いにもとづく点は、翻訳の訳文には現れません。翻訳HTMLの語注が、その点を補っています。

さらに、古くからの怒りに由来する病や苦しみが、ある家系に生じたとき、そこに狂気が現れ、予言を語って、解放の道を見いだしたと語られます。狂気は神々への祈りと奉仕へと逃れ、そこから清めと秘儀を得て、それを持つ者を災いから免れさせた、というのです。最後に、ムーサたちから来る狂気が挙げられます。それは、柔らかく人の踏み入れていない魂をとらえ、歌とその他の詩作へと熱狂させます。この狂気を欠いたまま、技術だけで十分な詩人になれると思い込む者について、ソクラテスは、「節度ある者の詩作は、狂える者たちの詩作の前に消え失せる」と言います。

まだ示されていないこと

ここまでで示されたのは、神から与えられる狂気が、悪どころか、人間の節制よりも美しいとされる、ということです。しかし、愛の狂気が善いものであることは、まだ示されていません。ソクラテスは、愛は愛慕者にも愛される者にも益のために神々から送られるのではないと示す者が勝利の賞を持ち去ればよい、と述べたうえで、こう言います。「私たちのほうは、逆に、この種の狂気が、最大の幸運のために神々から与えられるのだということを、示さねばならない」。

その証明は、神の魂と人間の魂の本性を見るところから始まります。この記事では扱いませんが、狂気をめぐるこの出発点のあとに、長い話が続きます。次の記事では、対話の後半に出てくる、書くことをめぐる話を見ます。