人は、誰の目をいちばん気にするのでしょうか。親の目や友人の目よりも、ある一人の目のほうが気になる、ということがあります。プラトン『饗宴』で、エロスをほめる話の最初を受け持つパイドロスは、愛という力を、この点から語ります。愛は人に何を与えるのか。パイドロスの答えは、恥と名誉心です。

最も年長の神という出発点

パイドロスの話は、エロスの生まれから始まります。エロスは偉大な神であり、人間にも神々にも驚嘆される存在で、その理由は多くあるが、とくに生まれにある、と彼は言います。証拠として挙げるのは、エロスには両親がいないことです。素人であれ詩人であれ、エロスの両親を語った者はいない、というのです。ヘシオドスは、まずカオスが生じ、そのあとに大地とエロスが生じたと言い、パルメニデスも、生成について、あらゆる神々のうちでまず最初にエロスが考え出された、と言っています。

こうしてエロスが最も年長の神々のなかにいることが認められるから、パイドロスは、この神が「私たちにとって最大の善いものの原因となる」と言います。

最大の善いものとは何か

では、その最大の善いものとは何か。パイドロスは、若いうちからの人にとって、よい愛慕者にまさる善いものはなく、愛慕者にとっても、愛される少年にまさる善いものはない、と言います。愛慕者は愛を向ける側の男、愛される少年は愛を向けられる側の少年のことです。アテナイには、成人の男が年下の少年を愛慕する習わしがあり、パイドロスの話も、この組を中心に進みます。

立派に生きようとする人が生涯にわたって導きとすべきものを、血縁も、名誉も、富も、愛ほどには植えつけることができない、と彼は言います。それは何かと自ら問い、こう答えます。「恥ずべきことに対する羞恥と、美しいことに対する名誉心」。これらがなければ、「国であれ個人であれ、大きく美しい事業をなしとげることはできない」というのです。

見られて苦しむ相手

パイドロスは、この羞恥を、見られる場面で具体的に示します。愛している男が、何か恥ずべきことをしているところを見つかったとします。あるいは、臆病から報復しないで、誰かに何かをされているところを見つかったとします。そのとき、父に見られても、仲間に見られても、そのほかの誰に見られても、「愛される少年に見られるほどには苦しまないだろう」と彼は言います。

同じことは、愛される側にも見られる、とパイドロスは続けます。何か恥ずべき状態にいるところを見られると、愛される者は、とくに愛慕者たちの前で恥じるのだ、というのです。ここは筆者の読みですが、パイドロスが見ているのは、愛の喜びそのものよりも、愛する相手の目が、人を恥ずべきことから遠ざける働きのようです。

愛慕者と愛される少年の軍隊

そこでパイドロスは、一つの仮定を置きます。もし、何かの方策で、愛慕者と愛される少年とからなる国か軍隊ができたなら、あらゆる恥ずべきことを遠ざけ、互いに名誉を競い合うことで国を治める以上に、うまく治める方法はない。そして、互いに並んで戦うなら、こうした者たちは、「少数であっても、いわば全人類に勝つだろう」と言います。

なぜ少数でも全人類に勝つのか。パイドロスによれば、愛している男は、持ち場を捨てたり、武器を投げ捨てたりしているところを愛される少年に見られるくらいなら、ほかのあらゆる人に見られるほうをまだしも受け入れ、そうなるよりは、「何度でも死ぬほうを選ぶだろう」からです。愛される少年を見捨てたり、危険にあるときに助けなかったりすることについても、どんなに卑しい者であれ、エロスその人が神がかりの状態にして徳へ向かわせ、生まれつき最もすぐれた者と同じようにしないことはない、と語ります。

パイドロスの話は、このあと、「愛する者たちだけが、他人のために死ぬことをすすんで引き受ける」という主張へ進みます。ただし、翻訳HTMLの概説は、宴での人々の話について、愛をたたえることが目的であり、愛が何であるかを確かめるものではない、と述べています。パイドロスのあと、パウサニアス、エリュクシマコスと話が続き、しゃっくりの止まったアリストパネスが、別の道から愛を語りはじめます。次の記事では、その、二つに切られた人間の話を見ます。