時間が足りない、人生は短い。そう嘆く声は、いつの時代にもあります。一方で、財布の中身には細かく目を配る人が、時間の使い方にはほとんど無頓着である、ということも珍しくありません。セネカの『人生の短さについて』は、この食い違いに目を向けます。人生は、本当に短いのでしょうか。
嘆きの向きを変える
この作品は、友人パウリヌスへの呼びかけで始まります。まず挙げられるのは、世間に共通する嘆きです。人びとは自然の悪意を嘆き、私たちは短い生涯のために生まれたのだと言う。名のある人びとも同じで、医者のなかで最も偉大な人の叫びとして「人生は短く、技術は長い」という句が引かれ、さらにアリストテレスが、自然は動物には五世代、十世代を生きられるほどの長さを許したのに、人間にははるかに手前の終わりを立てた、と争ったことも挙げられます。セネカは、アリストテレスのこの言い分を、賢者にふさわしくない、自然との争いだと見ています。
セネカの答えは、この嘆きの向きを変えるものです。1.4で、彼は言います。「私たちは短い人生を授かるのではなく、自分で短くしている。」人生が足りないのではなく、浪費している、というのです。人生は十分に長く、最も大きな事柄を成し遂げるにも足りる。ただし、全体がよく配分されさえすれば、という条件がつきます。莫大な王侯の富も、悪い主人の手に渡ればたちまち散り失せ、ささやかな財産でも、よい管理者に託されれば使うほどに増える。生涯も同じで、うまく取り計らう者には、十分に広がるというのです。
土地は守り、人生は配る
では、浪費とは具体的に何を指すのでしょうか。3.1で、セネカは土地の例を出します。人びとは、自分の土地が誰かに占拠されることを許さず、境界の幅についてわずかな争いがあれば、石と武器に走る。ところが、自分の人生には他人が踏み込むことを許し、その未来の所有者を自分から引き入れさえする。自分の金を分け与えようとする人は見つからないのに、人生は、なんと多くの人に配られていることか。そして、こうまとめます。「財産を守ることにはけちだが、時間の損失となると、ただ一つ、けちであることが立派なその事柄について、最も惜しみなく浪費する。」
勘定を人生に戻してみる
そこでセネカは、老人たちの群れから一人を捕まえて、こう言ってみたい、と語り始めます。あなたの生涯を勘定に戻してみよ。その時間のうち、債権者がどれだけ取り、愛人がどれだけ取り、王がどれだけ取り、被護者がどれだけ取ったかを差し引け。夫婦げんかや奴隷の折檻、義務を果たして町中を駆け回ったことも差し引き、自分でつくった病気を加え、使われずに放置されたことも加えよ。すると、「あなたが数えるよりも、持っている年数が少ないことが分かるだろう。」というのです。
問いは、さらに続きます。自分の考えに確信をもっていたことが、いつあったか。自分を自分のために使えたことが、いつあったか。顔つきが平静であったことが、いつあったか。心が恐れずにいたことが、いつあったか。こうして思い出してみれば、その人は、自分が未熟なまま死んでいくのだと悟るだろう、と語られます。
この箇所を、実際の訳文で読んでみたい方へ。
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原因は、どこにあるのか
では、その原因は何か。この問いに、3.4で答えが示されます。「あなたたちは、いつまでも生きるかのように生きている。」自分たちのもろさは念頭に浮かばず、どれだけの時間がすでに過ぎたかにも気づかない。時間は豊かにあふれるほどあるかのように浪費されますが、誰かあるいは何かに与えられるまさにその日が、最後の日かもしれないのです。セネカは、この食い違いを、こう言い表します。「あらゆることを、死ぬ者のように恐れ、あらゆることを、死なない者のように欲している。」
さらに、閑暇に退くのは五十歳から、公務から解放されるのは六十歳になれば、と言う人びとにも、批判が向けられます。それで、いったい誰を、より長い人生の保証人として得ているのか。「終わらなければならないときになって、生き始めるのは、なんと遅いことか。」ここは筆者の読みですが、生きることを後へ回す考え方が、時間の浪費の根にある、と言ってよいでしょう。
次の記事では、この考え方を、セネカが「人生の最大の損失」と呼ぶ先延ばしとして、第9章に沿ってたどります。