本当に取り組みたいことは、もう少し落ち着いてから始めよう。そう考えて、目の前の用事を片づけているうちに、いつの間にか日が過ぎていた。こうした経験は、多くの人にあるでしょう。セネカの『人生の短さについて』は、第9章で、この考え方を厳しく見つめます。なぜ、先延ばしは「人生の最大の損失」とまで言われるのでしょうか。
よりよく生きるために、忙しくする人びと
9.1の冒頭で、セネカは、ある人びとの考え方ほど愚かなものがありうるだろうか、と言います。指されているのは、賢明さを鼻にかける人びとです。彼らは、よりよく生きられるようにと、いっそう骨を折って忙しくしている。セネカは、これを「人生を費やして、人生を整えているのだ。」と言い表します。彼らは自分の計画を、遠い先まで整える。しかし、「人生の最大の損失は先延ばしである。」というのが、セネカの見方です。批判されているのは、よりよく生きられるようにと、いっそう骨を折って忙しくしている人びとです。ここは筆者の読みですが、備えることが、いつのまにか生きることの代わりになっている、という指摘と受け取れます。
期待は明日に懸かる
先延ばしは、来る日を一つひとつ引き延ばし、より遠いものを約束しながら、目の前にあるものを奪い去る、とセネカは言います。生きることの最大の妨げとして挙げられるのは、期待です。「期待は明日に懸かり、今日を失わせる。」あなたは、運命の手にあるものを手配し、自分の手にあるものを手放している、とセネカは言います。どこを見ているのか、どこへ身を伸ばすのか、と問いかけ、来るべきものはすべて不確かなもののなかにある、と述べたうえで、この段落は「今すぐ生きよ。」という一言で結ばれます。ここは筆者の読みですが、運命の手にあるものと自分の手にあるものとの区別が、この段落の要になっていると考えられます。
詩人が語ったのは「日」だった
続く9.2で、セネカは、最大の詩人の歌を引きます。「惨めな人間たちにとって、人生の最もよい日々は、まず先に逃げ去る」。翻訳HTMLの注によれば、この詩人は、引かれた句からウェルギリウスと分かります。詩人は、なぜためらうのか、なぜ手を休めるのかと問い、「つかまえなければ、逃げる」と言います。セネカは、つかまえたとしても、それでもなお逃げる、と付け加えます。だから、時間の速さには、使う速さで競わなければならない。激しく流れ、いつまでも流れつづけるとは限らない急流から、いわば急いで水を汲み取らなければならない、というのです。
9.3では、詩人の言葉の選び方に目が向けられます。詩人は、生涯の最もよい時期とは言わず、日と言う。何か月も何年も、貪欲の思うままに長い列にして引き延ばす人に、詩人が語っているのは、いま逃げつつあるまさにその一日のことだ、というのです。
旅人は、いつ着いたのか
9.4で、セネカは、最もよい日々がまず、惨めな人間たち、つまり忙しい人びとから逃げることに疑いはあるだろうか、と言います。彼らの心はまだ子どもなのに、老年が襲いかかる。彼らは準備もなく、武器もなくそこへ到達します。何も備えていなかったからです。老年が日々近づいていることに、気づいていなかったのです。そのため、思いがけず突然、老年のなかへ落ち込んでしまう、と言われます。
9.5には、旅人の比喩があります。旅をする人は、会話や読書や、何かに集中した考えごとにだまされて、近づいたと感じるより前に、すでに着いていたと気づく。同じように、休みなく、このうえなく速い人生の旅は、目覚めているときも眠っているときも、私たちが同じ歩調で進んでいるのに、忙しい人びとには、終わりに来るまで見えない、というのです。この比喩が向けられているのは、忙しい人びとです。人生の旅は、終わりに来るまで、彼らには見えないままだと言われています。ここは筆者の読みですが、旅人の比喩は、時間が静かに、しかも同じ歩調で進むことを、あらためて思い出させます。
では、時間を奪われずに生きる人は、どのように生きているのでしょうか。次の記事では、第14章と第15章で描かれる、知恵に暇を割く人びとを見ます。