人生の長さは、年数で決まるのでしょうか。白髪やしわが増えれば、それだけ長く生きたことになるのでしょうか。セネカは『人生の短さについて』の第14章と第15章で、短い生涯をどのように長くできるのかを、知恵に暇を割く人びとの姿を通して述べます。

知恵に暇を割く人びと

14.1は、こう始まります。「知恵に暇を割く人びとだけが、すべての人のなかで閑暇のある人であり、ただ彼らだけが生きている。」用語集によれば、ここでいう知恵に暇を割くとは、哲学者たちと交わり、その教えに学ぶことです。その理由として、セネカは、彼らが自分の生涯をよく守るだけではないことを挙げます。「あらゆる時代を自分の時代に加える。」彼らより前に過ぎたどの年も、彼らのために獲得されたものであり、私たちがこの上なく恩知らずでなければ、神聖な思想の最も名高い創始者たちは、私たちのために生まれ、私たちのために人生を備えてくれたのだ、と言われます。どの世紀も私たちには禁じられておらず、私たちはあらゆる時代へ入ることを許される、というのです。

続く14.2で、その交わりが具体的に語られます。「ソクラテスと議論し、カルネアデスと疑い、エピクロスと安らぎ、ストア派とともに人間の本性に打ち勝ち、キュニコス派とともに、それを超え出ることができる。」自然が、あらゆる時代との交わりへ進み入ることを許しているのだから、この短くはかない時間の移ろいから離れて、あの広大で永遠な、より優れた人びとと共有できるものへ、なぜ全心をあげて身を委ねないのか、とセネカは問います。

訪ね歩く人びと

これと対照的に描かれるのが、義務を果たして駆け回り、自分と他人を落ち着かなくさせる人びとです。14.3によれば、彼らは毎日あらゆる家の敷居を歩き回り、報酬目当ての挨拶を持ち回ります。それでも、これほど広大な都市のなかで、いったい何人に会えるだろうか、とセネカは言います。14.4には、眠りや贅沢や無礼によって彼らを遠ざける人、見せかけの急ぎ足で通り過ぎる人、暗い通路を抜けて逃げ出す人が、どれほど多いかが挙げられます。

14.5では、真の務めのなかで足を止めているのは、ゼノンやピュタゴラス、デモクリトス、アリストテレスやテオフラストスと、毎日できるだけ親しく過ごしたいと望む人びとだと言われます。これらの人びとは、誰も暇がないということはなく、誰も、手ぶらで自分のもとから去ることを許さない、と言われます。「彼らには、夜も昼も、すべての人間が会うことができる。」

年を減らさず、寄せ与える人びと

15.1は、これらの人びとが、あなたの年を使い減らさず、自分の年をあなたに寄せ与える、と述べます。「あなたの年を使い減らさず、自分の年をあなたに寄せ与える。」彼らの言葉は、あなたを危険にさらさず、彼らの友情は命取りにならず、彼らへの付き添いに金はかかりません。15.2では、この人びとの庇護のもとに身を寄せた者を待つ老年が語られます。最も小さなことも最も大きなことも相談できる相手があり、侮辱なしに真実を聞き、へつらいなしにほめられ、その人たちに似るように自分を形づくることができる、というのです。

自分の裁量で生まれる

15.3は、親の話から入ります。どんな両親を引き当てるかは私たちの力のうちにはなく、たまたま人びとに与えられたものだと、私たちはよく言う。これに続けて、「しかし、私たちは、自分の裁量で生まれることができる。」最も高貴な知性の家系があり、そのうち、どれに迎え入れられたいかを選べ、とセネカは言います。名前だけでなく、財産そのものについても養子として迎えられる。その財産は、さもしくも、けちくさくも守る必要がなく、より多くの人に分けるほど、大きくなるというのです。

15.4によれば、これは死すべき身を延ばす、いや、不死へと変える、ただ一つの方法です。名誉や記念碑、建造物は、長い年月のうちにすぐ崩れます。「しかし、知恵が聖別したものには、害を及ぼせない。」次の時代、その後のさらに先の時代が、尊敬へ何かを加える、と言われます。

15.5で、この話は賢者の人生にまとめられます。ある時が過ぎたなら、その人はそれを記憶によって捕らえる。ある時が今そこにあるなら、それを使う。来るべき時なら、それを先取りする。「あらゆる時を一つに集めることが、その人に長い人生をもたらす。」

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