『エチカ』第1部の定理15は、「あるものはすべて神のうちにあり、神なしには何ものもあることも考えられることもできない」と述べる。あるものはすべて、という以上、例外はない。この大胆な命題は、唐突な主張として置かれているのではなく、いくつかの定義から順に導かれている。その道筋をたどってみよう。
出発点にある三つの定義
第1部は、定義から始まる。スピノザは、実体を「自己のうちにあり、それ自身を通して考えられるもの」と定める(定義3)。その概念が、そこから形成されねばならない他のものの概念を必要としないもの、ということである。これに対して様態は、「実体の変状、すなわち、他のもののうちにあり、その他のものを通しても考えられるもの」とされる(定義5)。そして神は、端的に無限な存在者、すなわち、無限の属性から成る実体と定められる(定義6)。
ここに、公理1が加わる。「あるものはすべて、自己のうちにあるか、他のもののうちにある。」自己のうちにあるものが実体であり、他のもののうちにあるものが様態であるなら、知性の外には、実体とその変状のほかには何も与えられない。これは定理4の証明が述べていることである。
神のほかに、実体はない
次に、定理14が、「神のほかには、いかなる実体もありえず、また考えられもしない」ことを示す。証明の骨格は、次のとおりである。神は端的に無限な存在者であって、実体の本質を表現するどの属性も神については否定されえず、しかも神は必然的に存在する(定理11)。そこで、神のほかに何らかの実体があるとすれば、その実体は神のある属性によって説明されなければならない。しかしそうなると、同じ属性をもつ二つの実体が存在することになる。これは、定理5により不合理である。
ここから、二つの系が引き出される。第一に、神は唯一であり、自然のうちには一つの実体しか与えられない。第二に、延長するものと思考するものは、神の属性であるか、神の属性の変状である。
では、それ以外のものは、どこにあるのか
実体が神だけなら、机や石や人間は何なのか。定理15の証明は、こう進む。神のほかには、実体はありえない。一方、様態は、定義5により、実体なしにはあることも考えられることもできない。だから、様態は神の本性のうちにのみあり、その本性のみを通して考えられうる。そして、実体と様態のほかには何ものもない(公理1)。したがって、神なしには何ものもあることも考えられることもできない。
つまり、ものは、神の外に別の実体として並んでいるのではない。ものは、様態として、神のうちにある。
実体と様態をめぐるスピノザの議論を、スピノザ自身がどのような順序で展開しているのか気になった方へ。
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延長するものは、神にふさわしくないのか
定理15の備考で、スピノザは一つの反論に答える。物体のように延長するものは部分から成る。部分から成るものは、無限でありえず、したがって神には属しえない、という反論である。彼の答えは、物体的実体が部分から構成されるという想定そのものが不合理である、というものである。量は、想像するとおりに見れば、有限で、可分的で、部分から合成されたものとして見いだされる。しかし、知性のとおりに、実体として考えるなら、量は無限で、唯一で、不可分なものとして見いだされる。
例として水が挙げられる。水は、水である限りで分割され、その部分は互いに分離されると私たちは考える。だが、物体的実体である限りでは、水は分離されることも分割されることもなく、生成することも消滅することもない。部分が区別されるのは、物質がさまざまに変状していると私たちが考える限りにおいてだけである。
水が分かれたり消えたりするのは、水である限りでのことであって、物体的実体である限りでのことではない。この区別を手にすると、すべては神のうちにあるという命題は、ものが神の外にあるのではなく、神のうちにある、という意味で読めてくる。では、すべてが神のうちにあり、神の本性から生じるのだとすれば、そこに「偶然」の入り込む余地はあるのだろうか。次の記事では、定理29を読む。