「アトランティス」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
海に沈んだ超古代文明。オカルト雑誌の特集。ゲームや映画の舞台。この名前をどこかで聞いたことがある、という人はまずいないと思います。
けれども、いざ「これは誰が、どこに書いた話ですか」と聞かれると、案外答えに詰まります。それはもちろん無理もありません。しかし、この物語がもともと冒険小説ではなく、宇宙の成り立ちを論じる哲学書の中に書き込まれたものだと知っている人は、驚くほど少ないのではないかと思います。
答えは、今から2400年前、古代ギリシアの哲学者プラトンです。舞台は『ティマイオス』、そしてその続編『クリティアス』。今日は、この超有名な物語の「実際の文脈」を辿ってみます。
話は四重に重なっている
まず驚くのが、この物語の「語られ方」です。
『ティマイオス』の中で、アトランティスの話をするのはクリティアスという人物です。ところが彼は、自分の目で見たことを語っているわけではありません。
クリティアスは、この話を祖父から聞きました。祖父は、この話をソロン(アテナイの高名な政治家)から聞きました。そしてソロンは、この話をエジプトの神官から聞きました。
つまり「今、ここで語られている話」の背後に、三段階もの伝聞が積み重なっているのです。まるで入れ子人形のように、話の中に話が入っている構造になっています。
これは単なる演出過剰ではありません。むしろ逆で、由緒正しい筋から伝わってきた話だという信憑性を積み上げるための、周到な文学的仕掛けだと考えられています。
実際には、何が語られているのか
物語の内容を簡単に整理すると、こうなります。
大西洋の「ヘラクレスの柱」(現在のジブラルタル海峡)の外側に、アトランティスという巨大な島がありました。そこは海神ポセイドンの血を引く王家が治める、資源豊かで強大な軍事力を持つ帝国でした。
ところが代を重ねるうちに、王たちは神性、つまり徳を失い、権力と物質的な豊かさに溺れていきます。そして貪欲になったアトランティスは、地中海一帯を征服しようと大軍を送り込みますが、当時の理想的な国家であった古代アテナイに阻まれ、敗れます。
その後、アトランティスは大地震と大洪水に見舞われ、一昼夜のうちに海の底へと沈んでしまった。これが物語の骨子です。
なぜプラトンは、この話を必要としたのか
ここで大事なのは、この物語が語られる「文脈」です。
『ティマイオス』の冒頭で、ソクラテスは前日に自分が語った理想国家論を振り返り、こう求めます。「その理想国家が、実際に動いているところを見てみたい」と。
この、対話が始まってすぐのやり取り自体、この作品の「導入部」にあたります。実際にどんな言葉で語られているのか気になった方へ。
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つまりアトランティスの物語は、単独の冒険譚として書かれたのではなく、理念として語られた理想国家を、実際に戦い、勝利する姿として描き出すための装置として要請されたものなのです。古代アテナイは「理想国家が現実に機能したらどうなるか」を示す実例であり、アトランティスは、その対極、物質的な豊かさゆえに徳を失っていく国家として配置されています。
興味深いのは、プラトンが宇宙論そのものについても、同じ発想を使っていることです。『ティマイオス』の本編では、宇宙の成り立ちについて「これは断定できる真理ではなく、あくまで尤もらしい話として語ろう」という前置きが繰り返し出てきます。厳密な論証が及ばない領域について、精密さを装わず、しかし筋の通った物語として語る。アトランティスの物語も、宇宙論の語り口も、根っこにあるのは同じ方法論だと言えそうです。
「本当にあった場所」を探す人たち
とはいえ、この物語があまりに具体的に語られているせいで、古代から現代まで、多くの人が「これは実話ではないか」と考えてきました。
有力な候補としてしばしば名前が挙がるのが、エーゲ海のサントリーニ島(ティラ島)です。紀元前1600年ごろ、この島では人類史上でも最大級とされる火山噴火が起こり、島の中央部が吹き飛んで海に沈みました。近隣のクレタ島で栄えていたミノア文明も、この噴火をきっかけに大きく衰退したと考えられています。
一夜にして島が消える、栄えていた文明が急激に衰える。アトランティス伝説と重なる部分が多いことから、プラトンが伝え聞いた古い記憶が誇張されて伝わったのではないか、という説が根強く語られています。もっとも、プラトン自身がこの噴火に触れているわけではなく、あくまで状況証拠からの推測にとどまる点には注意が必要です。
このほかにも、世界各地の地形を「アトランティスの痕跡」とする説がたびたび話題になりますが、学術的に広く支持されているものはほとんどなく、話半分に楽しむのがちょうどよい領域だと言えるでしょう。
「本当にあったか」という問いの、その先に
アトランティスが実在したかどうかは、おそらくこれからも決着しない問いです。けれど、この物語の面白さは、実在の証拠探しだけにあるのではありません。
伝聞を幾重にも重ねて信憑性を演出する、文学的な仕掛け。「理想国家」という抽象的な議論を、具体的な物語として動かしてみせる発想。断定できないことを、それでも筋道立てて語ろうとする、尤もらしい話という方法論。
これらはすべて、2400年前の一人の哲学者が、宇宙・国家・人間について本気で考え抜いた末にたどり着いた、語りの技術です。
アトランティスの物語が生まれた『ティマイオス』では、この後、宇宙がどのように作られ、人間の身体と魂がどのように結びついているのかという、さらに壮大な議論が続いていきます。