悪いことをする人は、悪いと分かっていて、あえてそれを選んでいるのでしょうか。

前回、プラトンが病気を「体のバランスの乱れ」として説明していたことを紹介しました。実はプラトンは、この体の理論をそのまま延長して、驚くべき結論に到達します。「悪人になることを、自分から望む者は一人もいない」というのです。今日はこの主張を見ていきます。

「魂の病」もまた、体に由来する

『ティマイオス』でプラトンは、狂気や無知、そして悪徳(不正、臆病、放埒さなど)を、まとめて「魂の病」と呼びます。そして、これらの多くは、体の状態に原因があると説明します。

たとえば、体内の種(生殖に関わる液)が過剰になり、骨の中で溢れ出すと、魂全体がその影響で乱され、快楽と苦痛の激しい波にさらされ続けることになる、とプラトンは述べます。理性がまだその波を制御できないうちに、この状態が長く続けば続くほど、それは魂の癖として定着し、放埒さという性格として固まっていく、というわけです。悪徳は、生まれつきの魂の欠陥というより、体の状態が引き起こす、一種の病だと位置づけられているのです。

環境もまた、魂を病ませる

プラトンはここで、原因をさらに外側へと広げます。悪しき国制のもとで暮らすこと、幼いころから悪しき言葉を聞かされて育つこともまた、魂に病をもたらす、というのです。

つまり、ある人が不正や臆病、放埒さといった性格を持つに至った背景には、その人自身の体質だけでなく、その人が育てられた環境や、属していた社会の制度までもが関わっている、とプラトンは考えます。健康が個人の意志だけの問題ではないのと同じように、性格や徳もまた、個人だけに閉じた問題ではない、という発想です。

だから、誰も「望んで」悪人になるのではない

こうした議論をふまえて、プラトンはこう結論づけます。「悪しき者は、何らかの体の状態と、未熟な養育とによって悪しき者になるのであり、これらはすべての人にとって好ましくないものであって、望まずしてその身に起こることである」。

この一文の重みは、単に「人は環境に影響される」という、当たり前の話にとどまりません。プラトンはさらに一歩進んで、「悪しき者を悪しき者にした責任は、生み出し養育した親や、育てた者たちの側にこそ、より多くある」とまで述べます。悪人本人を一方的に責めるのではなく、その人をそのように育ててしまった環境や教育の側にこそ、目を向けるべきだ、というのです。

ソクラテスから続く、一つの伝統

実はこの発想は、『ティマイオス』だけの特殊な主張ではありません。プラトンの師ソクラテスは、『メノン』や『プロタゴラス』といった別の対話篇でも、繰り返し似た主張をしています。徳とは一種の知識であり、人は自分が真に善いと思うものを求める。だから、もし誰かが悪いことをするなら、それは彼が悪を悪と知りながらあえて選んだからではなく、何が本当に善いことなのかを、正しく知らなかったからだ、という考え方です。

『ティマイオス』が付け加えているのは、この「無知」がどこから生まれるのかという、体質と養育という具体的な経路の説明です。抽象的な倫理学の主張だったものに、いわば生理学的・教育学的な裏付けを与えている、と言えるかもしれません。

現代の視点から見ると

この発想は、現代の犯罪学や教育論とも、思わぬ形で響き合います。犯罪行動の背景に、生育環境や貧困、教育機会の乏しさといった社会的要因を見出し、処罰だけでなく、環境の改善や更生を重視する立場は、現代でも有力な考え方の一つです。

ただし、ここは意見の分かれるところでもあります。環境要因を重視しすぎると、個人の責任がどこまで問えるのかという、別の難しい問題が生じます。実際、現代の刑事司法においても、「更生に重点を置くべきだ」という立場と、「本人の選択と責任を重く見るべきだ」という立場との間で、今なお議論が続いています。プラトン自身も、後年の対話篇『法律』では、この『ティマイオス』の議論とは別に、実際の犯罪に対する刑罰のあり方を、かなり具体的に論じており、「誰も望んで悪人にはならない」という考えが、そのまま「だから罰する必要はない」という結論に単純につながるわけではない、という点には注意が必要です。

読み終えて

体のバランスから、性格や徳のあり方まで。プラトンは『ティマイオス』の最後で、宇宙論から始まった壮大な議論を、一人ひとりの人間の生き方の話にまで着地させます。宇宙の秩序、体の仕組み、そして魂のありよう。これらすべてが一つの世界観の中でつながっている、というのが、この対話篇全体を貫く姿勢だったと言えるでしょう。