『過程と実在』は、自分の立場を述べる前に、まず否認するものを並べる。緒言の中ほどで、ホワイトヘッドはこう書く。「これらの講義は、哲学に対するそれらの影響という点で否認される、次に挙げる広く行き渡った思考習慣の一覧に注意すれば、最もよく理解できるだろう。」積極的な教説の前に、何を捨てるのかが示されている。
否認される九つの習慣
挙げられるのは九つである。思弁哲学への不信。命題の適合的な表現としての言語への信頼。能力心理学を含意し、また能力心理学によって含意される、哲学的思考の様式。主語・述語という表現形式。知覚についての感覚論的教説。空虚な現実性という教説。純粋に主観的な経験からの理論的構築物としての客観的世界という、カント的教説。背理法による議論における恣意的な演繹。そして、論理的な不整合が、何らかの先行する誤り以外の何かを示しうるという信念である。
翻訳HTMLは、このうちのいくつかに解説を添えている。たとえば主語・述語という形式は、「AはBである」という文法の形が、実体(主語)に性質(述語)が付随する、というアリストテレス的な存在の見方を、そのまま思考に刷り込んでしまう、と説明される。また空虚な現実性とは、経験や感受をまったく欠いた、ただの物質としての現実的存在という考え方を指す。
緒言でホワイトヘッドが何を述べ、本文がどのように始まるのか気になった方へ。
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「頑固な事実」という言い回し
九つを並べたあと、緒言は次のように言う。「これら九つの神話と誤った手続きの一部、あるいは全部を安易に受け入れることによって、十九世紀の哲学の多くは、日常の頑固な事実との関連性から、みずからを締め出している。」
「頑固な事実」は、緒言だけでなく、本書のなかで繰り返し現れる言い回しである。翻訳HTMLの解説は、これを次のように読む。一度生成し終えた出来事は、もはや変更も撤回もできない、動かしがたい所与として、後続のあらゆる現実的存在の前に立ちはだかる。これは、緒言の後段に出てくる〈客体の不滅性〉と同じ事態を、生活実感に近い言葉で言い換えたものだという。哲学が九つの習慣に頼るとき、日々の生活が突きつけてくる、この動かしがたい重みから、みずからを遠ざけてしまう、という指摘である。
では、ホワイトヘッド自身の積極的な教説は、何を扱うのか。緒言は続けて、それが〈現実的存在〉の生成・有・関係性にかかわる、と述べる。次の記事では、その箇所を読む。