『過程と実在』の第五部第二章は、「神と世界」である。ホワイトヘッドは、この章で、自分の形而上学が、神の本性について何を要求するのかを、検討する。
伝統的な神観念への批判
第I節は、まず、伝統的な神学の筋道を確認する。時間的世界が、卓越して実在的であると同時に不動の動者でもある、一つの窮極的原理からの導出によって説明される、と考える限り、「この結論からの逃げ道はない」。その結論とは、世界の騒乱について言いうる最善のことが、「かくして彼はその最愛の者に――眠りを与えたもう」ということだ、というものである。
ホワイトヘッドは、これを、仏教的な型の諸宗教のメッセージであり、「ある意味においてそれは真実である」と認める。そのうえで、形而上学的な原理が、それが全真理であるという信念を課すかどうかを問う。
批判の中心は、二つの観念の結合である。〈不動の動者〉としての神は、アリストテレスに由来する。〈卓越して実在的〉としての神は、キリスト教神学の好んで用いる教説である。この二つを、その命令によって世界が存在するに至り、その課された意志に世界が従う、超越的な創造者という教説へと結合することが、「キリスト教とイスラム教との歴史に悲劇を注ぎ込んできた誤謬である」と述べる。
第I節の終わりには、別の示唆が置かれる。キリスト教のガリラヤ的な起源には、支配するカエサルも、容赦のない道徳家も、不動の動者も強調しない、もう一つの示唆がある。それは、世界における優しい諸要素にとどまる。「愛は支配することも、不動であることもない。」
神は、原理の例外ではない
第II節は、神について何が言えるのかを、慎重に始める。「ここには、証明という性格をもつものは、何も存在しない。単に、理論的な体系と、諸事実のある種の記述との、対決が存在するにすぎない。」
そして、第一の点を示す。「まず第一に、神は、あらゆる形而上学的諸原理への一つの例外として、それらの崩壊を救うために呼び出されるものとして、扱われるべきではない。彼は、それらの首座の例証である。」神は、原理が崩れそうなときに呼び出される例外ではなく、原理が最もよく当てはまる例だ、というのである。
原初的な神は、「欠性的に現実的」である
次に、神が原初的なものとして見られた場合が述べられる。「原初的なものとして見られた場合、彼は、潜勢性の絶対的な富の、無制限な概念的実現である。」そして、「この相貌において、彼はあらゆる創造に先立って存在するのではなく、あらゆる創造とともに存在する。」
ただし、原初的であるがゆえに、神は「卓越した実在性」から遠く離れており、この抽象においては〈欠性的に現実的〉である。それは二つの仕方においてである。第一に、「彼の諸感受は単に概念的であるにすぎず、したがって現実性の充満を欠く。」第二に、「物理的諸感受との複合的な統合を離れては、概念的諸感受は、それらの主体的形相において意識を欠いている。」だから、この原初的現実性には、感受の充満も、意識も帰してはならない、とされる。
それでも、この原初的な神は、働きをもつ。「彼は、感受のための誘因であり、欲求の永遠の衝迫である。」世界の側から見れば、神は、それぞれの主体的目的の初発の相を確立する、初発の〈欲求の対象〉となる。
しかし、神の本性は、原初的な側面だけではない。次の記事では、第III節から第V節で述べられる、神のもう一つの側面を読む。