前の記事では、神の原初的本性を読んだ。それは概念的で、意識を欠く。第III節は、そこから、神の本性のもう一つの側面を示す。

神は、結果的でもある

第III節は言う。「しかし神は、原初的であると同時に、結果的でもある。彼は始まりであり終わりである。」神は、すべての成員の過去にあるという意味での始まりではない。そして、あらゆる事物が相対的である以上、「世界の神への一つの反作用が存在する」。神の本性の、物理的感受の充満への完結は、神における世界の客体化から導出される。

こうして、神の本性は双極的になる。「あらゆる現実的存在に類比的に、神の本性は双極的である。彼は原初的本性と結果的本性とをもつ。」原初的本性は概念的であり、結果的本性は、神の物理的諸感受の、彼の原初的な諸概念のうえへの織り込みである。

二つの側面は、対にして述べられる。原初的な側面は、自由で、完全で、原初的で、永遠で、現実的には欠如しており、無意識である。これに対して、時間的世界から導出される物理的経験とともに発端する側面は、決定されており、不完全で、結果的で、〈永久〉であり、全面的に現実的で、意識的である。

神は、世界を救う

第IV節は、この結果的本性を、いくつかのイメージで描く。「神の結果的本性とは、世界についての彼の判断である。」その判断は、救われうるものを何も失わない、優しさの判断であり、時間的世界では単なる残骸にすぎないものを利用する、知恵の判断でもある。

そして、次の一節がくる。「彼は世界を創造するのではない。彼はそれを救う。あるいはより正確には、彼は世界の詩人であり、真・美・善の彼の幻視によって、優しい忍耐をもってそれを導く。」神の役割は、「産出的な力と産出的な力との、破壊的な力と破壊的な力との、格闘ではない」。それは、彼の概念的調和化の圧倒的な合理性の、忍耐強い作用のうちにある、とされる。

神と世界は、互いに言いうる

第V節は、永続と流動の問題を、神と世界の関係として問い直す。両者を悪しく分離すると、静的な神と流動的な世界とが、互いに矛盾を含むことになる。そこでホワイトヘッドは、問題を、二重のものとして捉える。「単なる流動と永続の問題が存在するのではない。二重の問題が存在する。」

この二重の問題をふまえて、第V節は、一連の対立項を対句の形で並べる。「神は永続的であり世界は流動的である、と言うことは、世界は永続的であり神は流動的である、と言うのと同じくらい真実である。」「世界は神のうちに内在する、と言うことは、神は世界のうちに内在する、と言うのと同じくらい真実である。」「神は世界を創造する、と言うことは、世界は神を創造する、と言うのと同じくらい真実である。」

神と世界は、創造性がその課題を達成する、対比された対立項である。神にとっては概念的なものが物理的なものに先立ち、世界にとっては物理的な諸極が概念的な諸極に先立つ。「神と世界とのいずれもが、他方にとっての新奇性の道具である。」