読み終えたら、この本そのものを投げ捨てなければならない――そう自分から宣言している哲学書があります。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』です。世界とは何か、事実とは、対象とは、命題とはと、一段ずつ議論を積み上げてきたこの本は、最後の最後で、その積み上げてきたもの自体を「無意味」だと言い切ります。積み上げてきた議論を、著者自身がなぜ投げ捨ててしまうのでしょうか。

世界から沈黙まで、積み上げられてきた道のり

『論理哲学論考』は、命題1「世界は、成り立っていることのすべてである。」から始まります。世界は物の集まりではなく、事実の集まりだ、というところから出発し、事実は対象の結びつきである事態からできていること、私たちはそれを「像」として捉えること、像である思考は命題として表され、命題を理解するとは、それが真であるときの状況を知ることであることへと、議論は一歩ずつ進みます。命題6では、すべての命題が要素命題の真理関数であることが示され、論理学・数学・自然法則・倫理・死・神秘といった主題が、この一本の道筋のうえで次々に位置づけられていきます。命題1から命題6まで、526の命題が、たった一つの道を作っています。

この道の一段一段は、前の命題への注釈として、小数点を挟んだ番号(1、1.1、1.11、2、2.01…)で結びつけられています。番号を動かすことすら許されない、濃密に構造化された議論です。ところが、この本自身は、この積み上げの果てに、積み上げてきたもの自体を手放すよう求めてきます。

「私の命題は、次のようにして解明を行う」

この長い道のりの末、命題6.54で、ウィトゲンシュタインは自分自身の議論についてこう述べます。「私の命題は、次のようにして解明を行う。私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを越えて上りきったとき、最後にそれらがナンセンスであることに気づく。(その人は、いわば、はしごを上りきったあとで、そのはしごを投げ捨てなければならない。)その人は、これらの命題を乗り越えなければならない。そのとき、その人は世界を正しく見る。」(6.54)

はしごは、上の階へたどり着くための道具であって、上の階そのものではありません。世界とは何か、対象とは何かという、ここまでの一つひとつの命題も、それ自体が語りたかった真理なのではなく、読者を、命題では語れない場所――ものごとがどう語られうるかの限界そのもの――まで運ぶための足場だった、というのです。

なぜ、この本自身の命題は「ナンセンス」なのか

この本は序盤で、哲学についてこう述べています。「哲学の目的は、思考を論理的に明晰にすることである。哲学は教説ではなく、活動である。」(4.112)そして終盤、命題6.53では、哲学の正しい方法についてこう続けます。「語られうること、つまり自然科学の命題、つまり哲学とは何の関わりもないこと以外には何も語らないこと。」(6.53)

ところが、この本自身の命題――「対象」「事態」「論理形式」といった言葉を使って世界の構造を語る命題――は、この基準に照らすと、自然科学の命題ではありません。語ろうとしている「世界の限界」そのものが、語る側と語られる側の外に立たなければ見えないものだからです。世界の内側にある物について語ることはできても、世界そのものの限界について語ろうとすると、その言葉は、自分がどこに立って語っているのかを示せなくなってしまう。だからこそ、これらの命題は、意味のある主張ではなく、読者を目的地まで運んだら不要になる、ナンセンスな足場だと言われるのです。

積み上げてきた議論そのものを、最後に「ナンセンス」と呼んで手放すこの構造は、発表から一世紀以上たった今も、論理学や言語哲学の枠を越えて、多くの読者を立ち止まらせてきました。自分の主張の足場を、主張そのものによって崩してしまう――この一種の自己言及的な身振りに、単なる逆説以上の何かを感じ取る読者は少なくありません。

最後に残る、たった一つの文

はしごを昇りきった先に、ただ一つの文だけが残ります。「話すことのできないことについては、沈黙しなければならない。」(7)世界、事実、対象、像、思考、命題、そして論理・数学・自然法則・倫理・死・神秘――ここまでのすべての議論は、語ることのできるものを、できるかぎり明晰に語り尽くすための道のりでした。そして、その道を尽くしたところに、語ることのできないものの在り処が、おのずと浮かび上がってきます。浮かび上がったものについては、もはや語ろうとせず、沈黙する。大部の体系書に匹敵する内容を、これほど短い分量に圧縮している点で異例なこの一冊が、526の命題の果てにたどり着いた場所です。

死について、この本はもう一つ、よく知られた言葉を残しています。次の記事では、「死は生の出来事ではない」という命題を読んでいきます。