ソクラテスも、プラトンも、人間である。では、その二人に共通する「人間」というものは、どこにあるのか。個々の人間のほかに、人間そのものが別に存在するのか。『存在するものと本質について』の第四章は、この古い問いに、独特の答え方をする。

個物の外に、類や種があるのではない

トマスは、まず、類や種という捉え方が人間性や動物性のような部分には属さないことを述べ、次に、類・種・種差が個物の外に存在する何らかの事物としてあるという見方を退ける。プラトン主義者たちが立てたような見方である。もしそうだとすれば、「類と種はこの個体について述語づけられないことになってしまう」。「ソクラテスが、彼から分離されたものである、と言うことはできない」からである。したがって、類や種という捉え方は、人間や動物という名が表すように、個体のうちにあるすべてを暗黙のうちに含む、全体という仕方で本質に属する。

自然本性の二通りの考察

そこでトマスは、自然本性ないし本質が二通りに考察されうると言う。一つは、「それ固有の自然本性とあり方に即して考察すること」であり、これが絶対的な考察と呼ばれる。この仕方では、「それ自身にそのようなものとして属することがら以外、何を述べても真ではない」。人間であるかぎりでの人間には、理性的であること、動物であることが属する。白いことや黒いことは属さない。

この自然本性は、一なるものと言われるか、多なるものと言われるか。トマスは、「そのいずれも認めるべきではない」と答える。理由は、「そのいずれも人間性という概念内容の外にあり、そのいずれもがそれに付帯的に起こりうるからである」。もし多性がその概念に属するなら、それは決して一なるものではありえないが、ソクラテスに属する場合には一である。もし一性が属するなら、ソクラテスとプラトンの自然本性は一つの同じものになり、複数のもののうちで多数化されることもできなくなる。

もう一つの考察は、この個物やあの個物のうちに存在を持つという点に即したものである。この自然本性は、「二重の存在を持つ」。「一つは個物のうちにある存在であり、もう一つは魂のうちにある存在である。」しかし、絶対的に考察された人間の自然本性は、「いかなる存在からも捨象されているが、そのどれかが排除されているわけではない」。個物のうちにあるということも、個物のうちにないということも、人間であるかぎりでの人間には属さないのである。

普遍という捉え方は、知性のうちにある

普遍という捉え方には、一性と共通性が属する。しかし、人間の自然本性には、絶対的な考察に即するかぎり、そのどちらも属さない。個体のうちにも、共通性は見いだされない。「ソクラテスのうちにあるものはすべて個体化されている」からである。それでは、種という捉え方は、どこから来るのか。

トマスの答えは、こうである。種という捉え方は、人間の自然本性に、「それが知性のうちに持つ存在に即して」付帯する。この自然本性は、知性のうちでは、あらゆる個体化する要因から抽象された存在を持ち、魂の外にあるすべての個体に対して、一様なあり方を持つ。すべての個体が人間であるかぎりにおいて、それらすべての似姿だからである。この関係から、知性は種という捉え方を見いだし、それを自然本性に帰属させる。注解者も、「事物のうちに普遍性を作り出すのは知性である」と述べている(もっとも、トマスは同じ箇所で、注解者の別の主張は退けている)。

例として、トマスは彫像を挙げる(この例は、本来、注解者の誤りを正す文脈にあるが、ここでは普遍の説明に用いる)。多くの人間を表す一つの彫像があるとする。その像は、この質料のうちにあるという点では、個別的で固有の存在を持つ。しかし、複数のものを共通に表しているという点では、共通性という捉え方を持つ。知性のうちにある自然本性も、これと同じように、個別的な存在を持ちながら、すべての個体の似姿として普遍という捉え方を持つ。

だから、種という捉え方は、ソクラテスには属さない。「種という名はソクラテスについて述語づけられず、「ソクラテスは種である」とは言われない。」ソクラテスは人間であるが、人間という種ではない。人間という自然本性そのものは、個物にも知性にも見いだされる。ただ、その自然本性が「種」と呼ばれる一つのまとまりとして捉えられるのは、知性のうちにおいてだけである。

ここまでは、質料と形相から成る複合実体の本質を見てきた。では、質料を持たない実体の本質は、どうなっているのか。次の記事では、第五章の前半を読む。