フェニックスとは何か、と問われれば、私たちは答えられる。では、フェニックスは本当にいるのか、と問われたらどうか。何であるかを知っていることと、それが実際にあるかどうかを知っていることは、同じではない。この素朴な違いを、トマスは、『存在するものと本質について』第五章で、存在論の中心にまで押し上げる。
質料を持たない実体の本質
第五章は、残る課題を告げることから始まる。「次に見なければならないのは、離存実体、すなわち魂・知性体・第一原因において、本質がどのような仕方であるか、ということである。」トマスは、知性体や魂に質料と形相の複合を立てる人々の説を、哲学者たちの言葉と相反するものとして退ける。最も有力な論証は、知解する能力に基づくものである。形相は、質料とその諸条件から分離される場合にのみ、現実に知解可能なものとなる。それゆえ、「知解するあらゆる実体においては、質料からのあらゆる意味での自由がなければならない」。
では、知性体のうちには、何の複合もないのか。トマスは言う。そこにあるのは、物体的実体の場合のような質料と形相の複合ではなく、「形相と存在との複合である」。ここで「形相」は、単純な何性ないし本質そのものを指している。
人間とは何か、フェニックスとは何か
この複合を、トマスは次のように論証する。本質ないし何性の概念内容に属さないものは何であれ、外から付け加わるものであり、本質と複合をなすものである。ところが、あらゆる本質は、その存在について何かが実際に知解されることなしに、知解されうる。
トマスの例は、こうである。「実際、私は人間とは何か、あるいはフェニックスとは何かを知解することができるが、それでも、それらが自然界のうちに存在を持つかどうかについては知らないままでありうる。」ここから、結論が出る。「したがって、存在は本質ないし何性とは別のものである、ということが明らかである。」
ただし、この結論には例外が付く。「その何性がまさにその存在そのものであるような、何らかの事物」があるとすれば、別である。そして、トマスは言う。「そのような事物は、唯一かつ第一のものでしかありえない。」
なぜ、唯一でしかありえないのか
理由は、多数化の仕方にある。トマスによれば、何かが多数化される仕方は三つしかない。一つは、種差が付け加わる場合であり、類の自然本性が種のうちで多数化されるのがこれにあたる。もう一つは、形相が異なる質料のうちに受け取られる場合であり、種の自然本性が異なる個体のうちで多数化されるのがこれにあたる。三つ目は、一方が抽象されたものであり、他方が何かのうちに受け取られたものである場合である。
ところが、存在だけであるような事物には、種差の付加も質料の付加も成り立たない。種差を受け入れるなら、「それはもはや存在だけではなく、存在と、それに加えてある形相ということになってしまう」。質料を受け入れるなら、「それはもはや自立した存在ではなく、質料的な存在になってしまう」。したがって、「自らの存在そのものであるような事物は、唯一でしかありえない」。それ以外のあらゆる事物では、存在は、何性ないし自然本性ないし形相とは別のものでなければならない。
存在は、どこから来るのか
本質と存在が別のものである事物は、その存在をどこから得ているのか。トマスは、存在が事物の形相ないし何性によって、いわば作出因として引き起こされることはありえない、と言う。もしそうなら、「ある事物が自分自身の原因になり、ある事物が自分自身を存在へともたらす」ことになるが、これは不可能だからである。したがって、存在が自らの自然本性とは異なる事物は、他のものから存在を得なければならない。
そして、他のものによってあるものはすべて、「それ自体によってあるもの、すなわち第一原因に行き着く」。そうでなければ、原因の系列を無限に遡ることになる。こうして、知性体は形相であり存在であること、そしてその存在を、存在だけであるところのものから得ていることが明らかになる。トマスは、こう結ぶ。「そしてこれが第一原因、すなわち神である。」
知性体が、存在を神から受け取るのだとすれば、知性体のうちでは、何が可能態で、何が現実態なのか。そして、神と知性体と複合実体は、どう違うのか。次の記事では、第五章の後半と第六章を読む。