神も、天使のような知性体も、人間のような質料をもつ事物も、「ある」と言われる。けれども、その「ある」は、同じ意味だろうか。『存在するものと本質について』は、本質と存在の関わり方に注目して、これらを区別する。第五章の後半と第六章の内容を、順にたどってみよう。
存在を受け取るものは、可能態にある
前の記事で見たとおり、知性体は形相と存在の複合であり、その存在を神から得ている。ここから、トマスは次のことを導く。「他から何かを受け取るものはすべて、それに対して可能態にある。そして、それのうちに受け取られたものは、それの現実態である。」したがって、知性体の形相ないし何性は、「神から受け取る存在に対して可能態になければならない」。受け取られた存在は、現実態というあり方にある。
こうして、知性体のうちには、現実態と可能態が見いだされる。ただし、形相と質料は、「多義的にでなければ見いだされない」。知性体同士の違いも、ここから説明される。「知性体同士の区別は、可能態と現実態の程度に応じてある。」第一のものにより近い、より上位の知性体は、より多くの現実態とより少ない可能態を持つ。この系列は、人間の魂において完結する。「人間の魂は、知性的実体のうちで最後の段階を占めている。」哲学者は、人間の魂を、「何も描かれていない書板」にたとえている。
本質の三つの様態
第六章は、これまでの考察を総括する。トマスは、実体において本質を持つ仕方には、三つの様態が見いだされると述べる。
第一の様態は、神である。「神のように、その本質がまさにその存在そのものであるようなものがある。」それゆえ、神は類のうちにはない。類のうちにあるものは、その存在とは別に何性を持たなければならないからである。しかし、神が存在だけであっても、他の完全性が欠けるわけではない。「神はあらゆる類のうちにある、あらゆる完全性を持っている。」神は、それらの完全性を、あらゆる事物にもまして優れた仕方で、一つのものとして持っている。
第二の様態は、被造の知性的実体である。そこでは、「存在はそれ自身の本質とは別のものであるが、本質は質料を伴わない」。そのため、これらの実体の存在は、「絶対的なものではなく、受け取られたもの」であり、受け取る自然本性の受容能力に応じて、限定され有限なものである。他方、その自然本性ないし何性は、いかなる質料のうちにも受け取られていない。それゆえ、『原因論』は言う。「知性体は下に向かっては無限であり、上に向かっては有限である。」上位のものから受け取る存在に関しては有限であるが、下に向かって限定されることはない、という意味である。
この様態の実体では、一つの種のうちに複数の個体が見いだされることはない。「ただし人間の魂は例外であり、それが結びつく身体のゆえに、そうなる。」人間の魂の個体化は、その端緒に関しては身体に依存するが、身体が滅んでも、個体化が消滅する必要はない、とトマスは述べる。
第三の様態は、質料と形相から成る実体である。そこでは、存在は受け取られたものであり、有限である。そのうえ、自然本性ないし何性も、指定された質料のうちに受け取られている。したがって、「指定された質料の分割ゆえに、一つの種のうちで個体が多数化されることが可能である」。
三つを並べてみる
三つの様態を並べると、違いは、本質と存在の関わり方に集約される。神においては、本質と存在が同一である。被造の知性的実体においては、本質は質料を伴わないが、存在は神から受け取られている。複合実体においては、存在も自然本性も受け取られ、しかも自然本性は指定された質料のうちにある。「ある」ということは、神においては本質がそのまま存在であり、知性体においては神から受け取られたものであり、複合実体においては受け取られたものであって、しかもその自然本性は指定された質料のうちに受け取られている。
残る領域は、一つである。ここまで扱ってきたのは、すべて実体であった。では、実体に宿る性質、つまり付帯性には、本質があるのか。次の記事では、最後の第七章を読む。