実体には、複合的なものにも単純なものにも、本質はある。では、白さや音楽性のような、実体に宿る性質にも、本質はあるのだろうか。『存在するものと本質について』の第七章は、この問いを扱う。

付帯性は、不完全な定義しか持たない

本質は定義によって意味される。そうである以上、事物は、定義を持つのと同じ仕方で本質を持たなければならない。ところが、「付帯性は不完全な定義しか持たない」。付帯性は、その定義のうちに基体を置くのでなければ、定義されえないからである。付帯性は基体から独立した、絶対的な存在を持たない。

トマスは、この点を、実体的形相と質料の関係と比べる。実体的形相も質料も、単独では絶対的な存在を持たない。しかし、両者の結合からは、「一つの、それ自体としてのもの」が成り立つ。だから、形相は、完全な本質のあり方を持たないとしても、完全な本質の一部ではある。

付帯性の場合は、事情が違う。付帯性が付け加わる当のものは、すでに、それ自体として完全な存在するものであり、自らの存在において存立している。付帯性は、その存在を引き起こすのではなく、「それなしでも存立する事物が存在すると知解されうるような、ある第二の存在を引き起こすにすぎない」。そのため、付帯性と基体からは、それ自体として一つのものにはならない。トマスは言う。「付帯性は完全な本質のあり方を持たないだけでなく、完全な本質の一部でもない。しかし、付帯性がある限定づきで存在するものであるのと同様に、ある限定づきで本質を持ってはいる。」

付帯性は、実体から生じる

では、付帯性は、どこから生じるのか。トマスの考えでは、実体が、付帯性の原因である。「ちょうど、熱さの極みにある火が、熱いものにおける熱の原因であるのと同様である。」いかなる類においても、もっとも真の意味でそう言われるものが、後にあるものの原因になるからである。

実体の部分は質料と形相であるから、ある付帯性は主に形相から、ある付帯性は質料から生じる。形相から生じるもののうちには、質料とのかかわりを持たないものがある。たとえば知解することは、身体的な器官によってなされない。他方、感覚することは、形相から生じるが、質料とのかかわりを持つ。そして、「形相とのかかわりなしに質料から続いて生じる付帯性は一つもない」。質料から生じる付帯性は、個体の付帯性であり、同じ種に属する個体同士を互いに異ならせる。形相から生じる付帯性は、その種に固有の属性であり、種に属するすべてのもののうちに見いだされる。笑いうるということが、その例である。

付帯性の類と種差はどう取られるか

実体では、類が質料から、種差が形相から取られた。付帯性には、質料と形相の複合がないので、この仕組みは使えない。付帯性の第一の類は、存在の仕方そのものから取られる。量は実体の尺度であることから量と言われ、質は実体のあり方であることから質と言われる。種差は、それらを引き起こす諸原理の多様性から取られる。

ここで、定義の書き方に違いが出る。付帯性のうち、基体固有の原理から生じる固有の属性が抽象的に定義される場合には、基体が種差の代わりに定義のうちに置かれる。トマスの例は、「獅子鼻であることとは、鼻の曲がりである」という言い方である。逆に、具体的に言われるあり方に即して定義するなら、基体が類として置かれる。「獅子鼻とは、曲がった鼻である」と私たちが言うのが、これにあたる。同じ付帯性が、抽象的に言われるか具体的に言われるかで、基体の置かれる位置が入れ替わる。

また、付帯性は、複合実体の名前のようには範疇のうちに置かれない。付帯性が範疇のうちに置かれるのは、もっぱら「白さ」「音楽性」のように、抽象的に意味される場合である。「白いもの」「音楽的なもの」のような具体的な名前は、還元によってのみ、種や類として範疇のうちに置かれる。