私たちは、「盲目は目のうちにある」と言う。この文では、盲目が「ある」と言われている。けれども、盲目とは目が見えないことであって、目に何かが付け加わったわけではない。ないことについて「ある」と言うとき、いったい何が「ある」のか。トマス・アクィナスの『存在するものと本質について』は、第一章で、この素朴な疑問に近いところから議論を進める。
始まりの小さな誤りを避けるために
本書の冒頭には、こうある。「始まりにおけるわずかな誤りは、終わりには大きな誤りとなる。」トマスはこれを、哲学者、つまりアリストテレスの言葉として引く。続けて、「存在するものと本質、この二つこそ、知性が最初に把握するものである」と述べる。最初に把握するものだからこそ、それについての無知から誤りが生じないよう、まず確かめておく必要がある。
そこでトマスは、「それゆえ、この二つについての無知から誤りが生じることのないよう、まずこの難点を解き明かさなければならない」と言う。そして、「本質および存在するものという名前が何を意味するのか」を確かめることから、論を始める。
「存在するもの」は二通りに言われる
第一章は、存在するものが「二通りに言われる」ことを指摘する。一つの仕方では、存在するものは「十の類へと分けられるもの」として言われる。もう一つの仕方では、存在するものは「命題の真理を意味するもの」として言われる。
第二の仕方の条件は、ゆるい。「たとえ事物のうちに何も定立しないとしても、それについて肯定命題を形づくることができるものはすべて、第二の仕方では存在するものと言われうる。」だから、「この仕方によって、欠如や否定も存在するものと言われる」。例として挙げられるのが、「肯定は否定に対立する、盲目は目のうちにある」という言い方である。「盲目は目のうちにある」と言えるのは、目が見えないという事態について、肯定の文を作れるからである。
第一の仕方は、厳しい。「第一の仕方で存在するものであると言われうるのは、事物のうちに何かを定立するものだけである。」そのため、「この仕方では、盲目やこれに類するものは存在するものではない」。盲目は、第二の仕方では存在するものと言われるが、第一の仕方では存在するものではない。
存在するものと本質をめぐるアクィナスの議論を、アクィナス自身がどのような順序で展開しているのか気になった方へ。
本質は、どちらの「存在するもの」から取られるのか
この区別が、本質という名の由来を決める。トマスの結論は、こうである。「本質という名は、第一の仕方で言われる存在するものから取られる。」理由は、第二の仕方では「本質を持たないものも存在するものと言われる」からであり、それは欠如の場合に明らかだとされる。盲目のような欠如は、第二の仕方では存在するものと言われるが、そこには、そのものを成り立たせる本質があるわけではない。
トマスは、注解者、つまりアヴェロエスの言葉を引く。「第一の仕方で言われる存在するものとは、事物の実体を意味するものである。」そのうえで、本質とは、「さまざまな存在するものがそれぞれの類のうちに位置づけられるもとになる、あらゆる自然本性に共通するもの」を意味しなければならない、と述べる。たとえば、「人間性は人間の本質であり、他のものについても同様である」。
本質には、いくつもの呼び名がある
続いてトマスは、本質の別名を挙げる。事物をそれ固有の類や種のうちに成り立たせるもの、それを私たちは「事物が何であるかを示す定義によって」意味している。そこで本質は、何性(かせい)とも呼ばれる。それは、「それによって何かがしかじかのものとして存在を持つところのもの」という意味である。
本質は形相とも呼ばれる。「形相によって、それぞれの事物の完全性ないし確定性が意味される」からである。また、自然本性とも呼ばれる。この名は、本質を、「事物に固有のはたらきへの秩序ないし秩序づけ」を持つという点から意味するように思われる、とトマスは言う。あらゆる事物が、それに固有のはたらきを備えているからである。同じ本質が、何であるかを言い表す点では何性、完全性を言い表す点では形相、固有のはたらきへ向かう点では自然本性と呼ばれる。
そして、本質という名そのものは、「それによって、またそれのうちで、事物が存在を持つという点において言われる」。本質とは、事物がそれによって、またそれのうちで存在を持つ、その中身のことなのである。では、その中身は、複合的な事物の場合、何から成っているのか。質料なのか、形相なのか。次の記事では、第二章を読む。