「ソクラテスは人間である」とは言えるが、「ソクラテスは人間性である」とは言えない。どちらも、人間の本質を指しているはずなのに、なぜこうなるのか。『存在するものと本質について』の第三章は、この違いを、類・種・種差との関係から説明する。
人間の本質とソクラテスの本質
第三章は、まずこう述べる。「人間の本質とソクラテスの本質は、指定されたものと指定されないものという点においてのみ異なる。」注解者は、「ソクラテスとは動物性と理性性にほかならず、これらがソクラテスの何性である」と述べている。人間の本質と個人の本質のあいだには、個体を指定する質料が加わるかどうか、という違いしかない。
同じことは、類の本質と種の本質のあいだにも言える。ただし、種に対する個体の指定は、量的な広がりによって規定された質料によってなされるのに対して、類に対する種の指定は、事物の形相から生じる種差によってなされる。
類は質料そのものではなく、種差は形相そのものではない
「動物」は、人間の一部分ではない。トマスは言う。「もし「動物」が人間の全体ではなく、その部分であるとしたら、動物は人間について述語づけられないことになるだろう。なぜなら、いかなる構成部分もその全体について述語づけられることはないからである。」部分としての魂や身体は、人間について述語づけられない。「人間は魂である」とは言えないのである。ところが、「人間は動物である」とは言える。だから、動物は部分ではなく、人間の全体を、規定されない仕方で意味しているのである。
そこで、類についてはこう言われる。類は、事物のうちにある質料的な側面を、固有の形相による規定なしに、全体として意味する。「それゆえ類は質料から取られるが、質料そのものではない。」種差についても、同様のことが言える。種差もまた、種のうちにある全体を意味するのであり、「形相だけを意味するのではない」。定義は、この両方を包含する。類という名が指し示す規定された質料と、種差という名が指し示す規定された形相である。
「事物の合成」と「概念内容の合成」
ここから、一つの区別が出てくる。私たちは、人間は魂と身体から成る、と言う。しかし、「人間は動物と理性的なものとから成る、とは言わない」。「人間は理性的動物である」と言うのである。
魂と身体から人間が成るのは、二つの事物から、そのいずれでもない第三の事物が構成されるという仕方による。人間は魂でも身体でもないからである。これに対して、人間が動物的なものと理性的なものとから成ると言われるとしても、それは「二つの事物から第三の事物が成るという仕方によってではなく、二つの概念内容から第三の概念内容が成るという仕方によってである」。動物という概念内容は、特殊な形相の規定を欠いたまま事物の自然本性を表現するので、質料的な位置にある。理性的という概念内容は、特殊な形相の規定のうちに成り立っている。この二つから、種ないし定義の概念内容が構成される。
「人間」は全体を、「人間性」は部分を意味する
この区別は、「人間」と「人間性」という二つの名の違いにつながる。「人間性」は、「それによって人間が人間であるところのもの」を意味する。ところが、指定された質料は、それによって人間が人間であるところのものではない。それゆえ、人間性の意味からは、指定された質料が排除される。
トマスは、二つの名の違いを、こうまとめる。「「人間」という名は、人間の本質を全体として意味する。」質料の指定を前面に押し出すことなく、それを暗黙のうちに、判然としない仕方で含んでいる。これに対して、「「人間性」という名は、人間の本質を部分として意味する」。この名は、人間であるかぎりでの人間に属することがらしか、その意味のうちに含んでおらず、質料のあらゆる指定を排除するからである。
その結果、「人間」は個々の人間について述語づけられるが、「人間性」は個々の人間について述語づけられない。部分は全体について述語づけられないからである。トマスは、この違いが、本質という名の用法にも現れることを指摘する。「ソクラテスはある本質である」と言われる一方で、「ソクラテスの本質はソクラテスではない」とも言われる。前に見た全体と部分の区別が、ここにも現れている。
では、この本質は、事物のうちにあるのか、それとも知性のうちにあるのか。類や種という捉え方は、どこに存在するのか。次の記事では、第四章を読む。