前の記事では、ハチの本能が「共感」であることを見た。では、人間の知性はどうか。ベルクソンは『創造的進化』第二章で、知性と本能を、認識の観点から比べる。そこから、知性は物質には強いが、生命のまわりを回るだけで中には入れない、という見方が出てくる。そして、それを補うものとして、直観が登場する。
本能は事物を、知性は関係を知る
ベルクソンは、本能も知性も、学ぶことなく知っているものがあると見る。ただし、その内容が違う。新生児が初めて乳母の乳房を探すとき、一度も見たことのないものの認識を、おそらく無意識にもっていることを示す。生得的な認識が定まった対象の認識であるからこそ、それは本能だと言える。これに対して、知性は、いかなる対象の生得的な認識ももたらさない。しかし、幼い子供は、名詞に形容詞が付けられる日には、それが何を意味するかをただちに理解する。属性と主語の関係は、自然につかまれている。こうして、「この生得的な認識は、前者の場合には事物に、後者の場合には関係に関わる」とされる。
言い換えれば、知性は、その生得的なものにおいて形式の認識であり、本能は質料の認識を含意する、ということになる。第一の認識は「ここに、あるものがある」と言い、定まった対象に、その物質性のなかで直接に達する。第二の認識は、どの個々の対象にも達せず、「条件がこうであれば、条件づけられるものはこうなる」と、仮言的に言うだけである。前者は、内的で充実した認識をもつが、特殊な一つの対象の、限られた部分にしか当てはまらない。後者は、外的で空虚な認識しかもたないが、無限の対象が次々と場所を見いだせる枠組みをもたらす。ベルクソンは、この二つがもとは互いに含み合っていたが、大きくなるために切り離されて、それぞれが世界のなかに運を探しに行った、と述べる。
知性は、生命のまわりを回る
こうした知性は、物質に向かうときには、すぐれた働きをする。「知性は、その作品である科学を介して、物理的な作用の秘密を、ますます完全にわれわれに明かすだろう。」しかし、生命については事情が違う。「生命については、不活性の言葉への翻訳しかもたらさず、もたらそうとも主張しない。」
ベルクソンはこう描く。知性は、生命のまわりをぐるぐると回り、その対象の家に入るのではなく、対象を自分の家に引き寄せて、外からできるだけ多くの見方を取る。イモムシの神経系の発生に表れる力が何であれ、目と知性は、それを神経と神経中枢の並置としてしか捉えない。外的な結果のすべてには達するが、内側にはいない。
直観とは、本能が自分を意識したものである
それでは、生命の内側に入る道はないのか。ベルクソンは言う。「しかし、生命の内部そのものにわれわれを導くのは、直観であろう。すなわち、無私になり、自分自身を意識し、その対象に反省して、それを際限なく広げられるようになった本能である。」
ここで定義されているのは、直観が本能の延長上にあるということである。本能は共感であったから、その共感が、対象を広げ、自分自身にも反省できるようになれば、生命的な作用の鍵を与えてくれる。ちょうど、発達し正された知性が、われわれを物質に導き入れるのと同じである。
芸術家が目指すもの
そんな努力が不可能でないことの証拠として、ベルクソンは、人間のうちにある美的な能力を挙げる。われわれの目は、生きた存在の特徴を捉えるが、互いに並置されたものとして捉えるのであって、互いに組織されたものとしては捉えない。生命の意図、すなわち線を貫いて走り、線を互いに結びつけ、線に意味を与える単純な運動は、目を逃れる。芸術家が再びつかもうとするのは、この意図である。「一種の共感によって対象の内部に身を置き直し、直観の努力によって、空間が自分とモデルのあいだに置く障壁を低くする」ことによって、である。
ベルクソンは、この美的な直観は個別的なものにしか達しないが、芸術と同じ向きに向けられ、生命一般を対象とする探求を考えることはできる、と言う。
直観は、知性を捨てることではない
ただし、ベルクソンは、直観に万能を求めてはいない。そのような哲学は、科学が自らの対象についてもつのに匹敵する認識を、その対象から決して得ないだろう。知性は、本能が、たとえ広げられて直観へと純化されても、漠然とした星雲しか形づくらない、光る核にとどまる。それでも直観は、二つの働きをする。一つは、知性の機構そのものを用いて、知性の枠組みが生命にはもはや正確には適用されないことを示すこと。もう一つは、知性の枠組みの代わりに置かなければならないものの、漠然とした感じを示唆することである。こうして直観は、知性に、生命が多の範疇にも一の範疇にも完全には入らないこと、機械的因果性も目的性も、生命的過程の十分な翻訳を与えないことを、認めさせることができる。
しかも、直観を現在の高みにまで上げた衝撃は、知性から来たはずだと、ベルクソンは言う。知性がなければ、直観は本能の形にとどまり、実際に関心のある特殊な対象に釘づけにされていたであろう。知性と直観は、対立するものではなく、互いに補い合うものとして置かれている。
この二つの能力をどう考慮に入れるべきかは、認識論と形而上学が一つの円環をなす、という見通しとともに、後の章に送られる。次の記事では、その形而上学の側から、哲学が長く悩んできた、なぜ何もないのではなく何かがあるのか、という問いを取り上げる。