色や匂いは感じる人の心のなかにあるが、そのもとになる物そのものは心の外にちゃんとある。多くの人が、そう考えているのではないだろうか。観念は、外の物の写しである、というわけである。
バークリーは、この考えを退ける。『人知原理論』の第一部で、彼が物質と呼ばれるものを退けていく主要な議論を、順に読んでみよう。
観念は、観念にしか似ない
第8節で、バークリーはまず、予想される反論を取り上げる。観念そのものは心の外にないとしても、観念がその写しあるいは似姿であるような物が、心の外に、思考をもたない実体のうちに存在しうるのではないか、と。
彼の答えは短い。観念は観念にしか似ることができない。色や形は、別の色や形にしか似ることができない。自分の思考をのぞきこめば、観念のあいだ以外に類似を思い描くことはできないと気づくはずだ、というのである。
さらにバークリーは問う。観念の絵あるいは表象であるとされる外的な物は、それ自体知覚されうるのか、そうでないのか。知覚されうるなら、それも観念であり、問題は片づく。知覚されえないというなら、色が見えない何かに似ている、硬さや柔らかさが触れることのできない何かに似ている、などと言うことが、はたして意味をなすのか。彼はそれを、誰にでも訴えて問う。
第一性質と第二性質
当時の哲学者たちは、物の性質を二つに分けていた。延長、形、運動、静止、固性(不可入性)、数を第一性質とし、色、音、味など、ほかのすべての感覚的な性質を第二性質とする。第二性質の観念は、心の外の何かの似姿ではないと彼らは認める。けれども第一性質の観念は、心の外にある、物質と呼ばれる思考をもたない実体のうちに存在する物の、原型であり像だと主張する。物質とは、延長、形、運動が現実にそのうちに存続する、不活性で感覚をもたない実体のことである。
バークリーは、この区別が成り立つのかを問う。第一性質が、第二性質と不可分に結びついているならどうなるか。彼自身は、延長をもち動いている物体の観念を形づくるとき、何らかの色か、心のうちにしか存在しないと認められているほかの感覚的な性質を、必ずそれに与えてしまう。ほかのすべての性質から切り離された延長、形、運動は、思い描くことができない。それゆえ、第二性質が心のうちにあるなら、第一性質もそうでなければならない。
第11節では、大きいと小さい、速いと遅いは、感覚器官の構造や位置によって変わるのだから、心の外のどこにもないと認められている点に目を向ける。心の外にある延長は、大きくも小さくもなく、運動は速くも遅くもない。では、それは何なのか。それは一般における延長、一般における運動だ、と答えるなら、それは序論で退けた抽象観念に頼ることになる。バークリーは、心の外に存在する延長をもち動きうる実体という信条が、抽象観念の学説に依存していることが、ここでわかる、と言う。
同じ論法は、どちらにも使える
バークリーは、さらに公平な指摘を加える。哲学者たちは、同じ物体が一方の手には冷たく、他方の手には温かく感じられることから、熱さと冷たさは心の変様にすぎないと論じる。それならば、同じ目でも位置が違えば、あるいは目の組織が違えば、形や延長もさまざまに見えるのだから、それらも心の外の確定した何かの像ではない、と論じても同じではないか。熱病にかかったときには甘さが苦さに変わる。心のうちの観念の継起が速くなれば、外の対象に変化がなくても運動は遅く見える。
ただし彼は、この論じ方が証明するのは、外的な対象に延長や色がないことよりも、むしろ、対象の真の延長や真の色がどれであるかを、私たちが感覚によっては知らないことだ、と認めている。そのうえで、先の議論は、いかなる色も延長も、心の外の、思考をもたない主体のうちには存在しえないこと、さらには、外的な対象などというものがあること自体が不可能であることを、明白に示す、と結ぶ。
物質が「支える」とは、どういう意味か
第16節と第17節で、バークリーは、物質の定義そのものに切り込む。延長は物質の様態あるいは偶有性であり、物質はそれを支える基体である、と言われる。では、物質が延長を「支える」とは、どういう意味か。柱が建物を支えるような、通常の字義どおりの意味でないことは明らかである。ならば、どのような意味なのか。最も厳密な哲学者たちも、物質的実体という語に結びつけた意味は、一般における存在の観念と、それが偶有性を支えるという相対的な概念以外にはないと認める、とバークリーは言う。しかし、その二つのどちらにも、明確な意味は結びついていない、と彼は確信する。
仮に外の物体があるとして、それを知りえるのか
第18節で、バークリーは一歩引いて問う。かりに、観念に対応する固い、形をもつ実体が、心の外にあることが可能だとしても、私たちはそれをどうして知りうるのか。感覚が教えるのは、感覚によって直接知覚されるもの、つまり自分の観念だけである。理性によって知るというなら、感覚が与えるものから、その存在を推論するしかない。しかし、物質を擁護する人々自身が、物体と私たちの観念とのあいだに必然的な連関があるとは主張しない。夢や狂乱の例が示すとおり、外に何もなくても、私たちが今もつすべての観念に触発されることは可能なのである。
観念がどのように生み出されるかを説明するには、外の物体を想定したほうがよいのではないか、とも言われるだろう。しかし、物体が精神にどのように作用して観念を刻み込むのかは、物質の擁護者たち自身が理解できないと認めている。物体を想定してもしなくても、説明のつかなさは同じなのだから、観念が生まれることは、物質を想定する理由にはならない。
第20節は、こうまとめる。もし外的な物体があるとしても、私たちがそれを知るに至ることは不可能である。もしなかったとしても、私たちは今もっているのとまったく同じ理由を、あると考えるために持ちうる。外の物体の助けなしに、あなたと同じ観念の連なりに触発された知的存在を想定してほしい。その存在は、あなたが物体の存在を信じる理由を、すべてもっているではないか、と。
とはいえ、これには強い疑問が浮かぶだろう。誰も見ていないとき、机はどうなっているのか。目を閉じれば、部屋の椅子は消えてしまうのか。次の記事では、バークリー自身が取り上げるこの反論と、彼の答えを読む。