存在するとは知覚されることだ、と言われたら、誰でもすぐ、一つの疑問を抱くだろう。では、誰も見ていないとき、その物は存在しないのか。部屋を出たあと、机も椅子も消えてしまうのか。

この疑問は、バークリーの考えに向けられる、最も素朴な反論の一つである。バークリー自身が、それをはっきりと言葉にして取り上げている。

バークリーが自分で挙げる反論

第45節で、彼は反論をこう書く。感覚の対象は、知覚されるときにだけ存在する。したがって、庭の木々や客間の椅子は、それらを知覚する者がそばにいるあいだしか存在しない。「目を閉じれば、部屋のなかの家具はすべて無に帰し、目を開けただけで、再びそれが創造される。」

これに対する第45節の答えは、まず読者への問いかけである。観念が「現実に存在する」というとき、それが知覚されることとは別の何かを、本当に意味しているのか。バークリーは、できるかぎり入念に探究したが、別の意味を見いだせなかったと言う。もし読者が、観念やその原型が、知覚されることなしに存在しうると思い描けるのなら、自分は主張を放棄しよう。しかしそれができないなら、自分でも何であるかを知らないものを守るために、意味をもたない命題への同意を私に強いるのは、理にかなっていない、と。

哲学の受け入れた原理のほうこそ

第46節で、バークリーは視点を変える。まぶたを閉じれば周りの可視的な対象がすべて無に帰すというのは、奇妙に不合理だと考えられている。しかし、光と色が視覚に固有の直接の対象であり、知覚されているあいだしか存在しない単なる感覚であることには、哲学者たちはこぞって同意している。それは、まさにこのことを認めているのではないか、と彼は言う。

物が一瞬ごとに創造されるという考えも、見かけほど奇妙ではない。スコラ学者たちは、物質の存在を認めながらも、物質は神の保存なしには存続しえないと考えており、この保存を継続的な創造として説明している。つまり、この概念は、スコラの学校で一般に教えられているのである。

物質を認めても、結果は同じ

第47節は、さらに踏み込む。かりに物質の存在を認めたとしても、哲学者たち自身の原理から、個別の物体は、知覚されていないあいだは存在しないことが帰結する、と。彼らの言う物質は、感覚に入る物体を互いに区別する個別的な性質を何ももたない。そして、物質は無限に分割されうると彼らは認める。そこから、各物体は、感覚が鋭くなるにつれてより多くの部分を示し、見える大きさと形が変わっていくことになる。そのあいだ、物体のほうには何の変化もない。それ自体として考察された物体は、無限に延び、あらゆる形を欠くことになる。ならば、可視的世界を構成する多様な物体の形を作っているのは、心だということになる。

私が見ていなくても、見ている精神がある

そして第48節が、バークリー自身の答えである。第45節の反論は、彼が前提した原理に正当に向けられたものではない。たしかに、感覚の対象は、知覚されなければ存在しえない観念である。しかし、私たちが知覚しなくても、それらを知覚する別の精神がありうる。だから、それらが私たちに知覚されているあいだしか存在しない、とは結論できない。物体が心の外には存在しないと言うとき、彼が意味しているのは、これこれの特定の心ではなく、あらゆる心である。

これは、第6節の言葉と響き合う。世界の壮大な枠組みを構成するすべての物体は、心の外にはどんな存続もない。したがって、私によって現実に知覚されないあいだ、あるいは私の心やほかの被造物である精神の心のうちに存在しないあいだは、それらはまったく存在しないか、あるいは何らかの永遠の精神の心のうちに存続するかのどちらかでなければならない。

つまり、バークリーの原理は、「見ている人がいなければ物は消える」という主張ではない。「どんな物も、何らかの精神に知覚されることなしには存在しない」という主張である。誰も見ていない机が存在しつづけるとすれば、それは、机が精神から独立して存在しているからではなく、それを知覚している別の精神があるからである。第6節は、そうでなければ、それらはまったく存在しないことになる、と選択肢をはっきり示している。

けれども、こう問う人もいるだろう。観念がすべて精神のうちにあるのなら、私たちがいま見ている世界は、夢や空想と、どこが違うのか。次の記事では、バークリーが「実在する物」と「想像された観念」を、どのように区別するかを読む。